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Archive for 2012年8月

「おひさまと虹の学校・土曜クラス」は、長野県上水内郡飯綱町(旧牟礼村)の町の高台に古くからある、小さなお寺を使わせて頂いて開校している。
二十~三十年前にこのお寺…「観音寺」のご住職が亡くなって以来、住職のいない、いわゆる無住寺となって荒れてしまっていたこのお寺は、5年前、「れんげ子ども園」という小さな幼稚園となって新たな時を刻み始めた。

お寺という場が仏教という教えを説き広めることに始まったことは間違いないけれど、仏教という教えをつうじて人々の中に「何か」が育まれ、その「何か」が人々の暮らしにとって欠かすことのできないものとなってゆくことをつうじて、結果としてお寺は、地域の人々や檀家の人々など、たくさんの人々が集まる「場」となっていったのだろう。

…現代という時代に生きる自分からすれば、それはなにも仏教でなくても良かったのではないかと思ったりもする。
でもきっと、ここに仏教という種が撒かれ、根付き、結果として「寺」という場となっていったのであろうことを思うと、そこに撒かれた仏教という種は、おそらく自分が思っているような仏教とは異なるものであったのかもしれない…とも思う。

おそらくは、江戸時代から明治時代にかけてつくられたであろう観音寺の庫裡。
入口の土間は今よりもずっと広かったのかもしれない。
土間には土に覆われた竈があったのだろう。
庫裡の二階に上がると、その竈の煙で煤けて黒くなった天井が見える。
現代的につくり直された…とは言ってもそれは30年ほど前であろうか。
台所の奥には、一度に三升の米が炊ける釜が二つのる竈が今も残っている。

この竈を子どもたちと掃除して、火をつけてみることにした。
梯子をかけ煙突のつき出した屋根に登って、屋根の上に積もった葉っぱを掃除する子がいる。
煙突の上のほうから声がする。
「お~い、聞こえる?」
「薪も集めなきゃ…。」
「杉の葉は燃えやすいよ。」
「竹の葉っぱはどう?」
「まっちで火つけられるかなぁ…」

お寺の境内、小さな本堂の前には20ほどのお墓が立ち並ぶ。
子どもたちがそのお墓の傍らを走りまわる姿を見ていたら、「何か」を感じた。

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「おひさまと虹の学校・土曜クラス」のサマーキャンプに​、長野市から最も近い、飯縄高原キャンプ場へと出かけた​。
小学生以上の子供たち18人とその弟や妹が3人、そして​、親御さんたちを含めた大人が18人…合計約30人とい​う大所帯。
これだけの大所帯がたった一泊であるとは言え3食を共に​するということは、それは単なる集合では無く…むしろそ​こにつくられるもの…必要とされるのは、家族や村に近い​ものだと思う。
さらに言えば、たった一泊のキャンプであるからこそ、そ​れぞれの持てる力が…個々の得意不得意…自分が果たせる​役割がより鮮明になるものだ。
幾ら準備に時間を費やしたとしても、日常的に身体にしみ​ついていること以外でき はしない。
できないことが悪いのでは無い。できないことを幾ら積み​重ねても楽しく無くなるだけ…大切なことは、一人ひとり​ができることだけを積み重ねてゆくこと、それをその後の​日常に活かすきっかけとしてキャンプという場づくりはと​ても有効な手立てだと思っている。

子供たちは、日常とは違った空気感を全身で感じながら、この居心地の良さを如何に持続させるかを、頭では無く全身で考える。
一緒に遊んで、食事して、一緒のテントで眠る…といった時間をお互いが共有しあうこと。この「共同の場づくり」からの学びは、普段の学校での学びとはまた違った、大切な学びの場となることは間違いない。
そんな子供たちの姿を見ながら、大人たちも一緒になって自分にできること、すべきことを見つけ、子供たちの前で表現すること…その意味はとても大きいと思う。

「おひさまと虹の学校・土曜クラス」は、昨年の秋から始めた小学生にあたる年齢の子供たちを対象とした土曜学校をきっかけに、今年1月から3月の準備クラスを経て、5月から正式に開校したばかりの小さなフリースクール。
一か月に約4回の土曜日に、小学生にあたる年齢の子供たちが通っている。
あるきっかけで今年1月からこの学校に関わることになった私は、子供たちから先生と呼ばれることにいまだ大きな戸惑いを感じながらも、子供たちをはじめここに関わるたくさんの人々から多くを学び多くを考えさせて頂いている。

今回のキャンプは、土曜クラスのこどもたちの中から「キャンプに行きたい!」という声があがったことに始まった。
現在のところ、土曜学校での授業の内容は教師が決め、それを子供たちが実行している。
もちろん、学びの只中にある子供たちにとってそれも一つの方法でであるとは思う。
でも、この場が子供たちの大部分の日常である普段の学校では無い学校である意味をあらためて考えてみると、如何にして子供たちの自主性を汲みあげるかについてを、教師である大人、子どもたちの親、そしてここに関わる可能性のある大人たちがもっともっと真剣に考えなければならないと思っていた矢先のキャンプだった。

こどもたちの殆どは、日常、自分が暮らす市町村の通学区の小学校で学んでいる。
そんな子供たちが、長野市内をはじめ、あちらこちらの市町村から集まってきていることの意味はとても大きい。
日常的に通う学校の中では当然だと思っていたルールがここでは当然ではない…。
1年生から6年生まで全員が一緒に食事をする…。いつもなら怒られるはずなのに…と思うこともあるだろうし、先生のイメージが違うこともあるかもしれない。
それぞれにとっての日常が全てにとっての日常では無いということ。
この違いに戸惑いながら、自分を確認してゆくことは、この時期の子供たちにとって何よりも大きな学びではないかと私は思っている。

この小さな学校に通い始めた最初のきっかけは親の選択であったことは間違いないが、フリースクールである以上、学校とは名のってはいるものの、少なくともここに通うこと、ここでの学びは義務では無い。
ここに来たくなければ、やめるのは自由…本来、その選択は子供たち自身がすることだ。
…とはいえ、日常的に公立、市立を問わず、学校に通っている…通わされている?子供たちにとって、「ここに来る、来ないは自由…それは君たちが決めること」とは言われても、その自由さをいきなり子供たちに強要することは子供たちにとっての大きな苦痛にもなりかねない。
それを決められないのは、子供たちのせいでは無い。

子供たちは、この世を感じ、感じたままを生きている。
月並みではあれ、子は親の鏡…子供の行動を通じて見えるこの世界…いじめも、無気力も…子供たちは大人がつくりあげてしまったこの世界そのものを表現しながら生きている。
本来的には大人と子供の境目など決まってもいないし存在しない。
最近の子供があるのでは無い。それは最近の大人であり最近の私たちなのだ。

子供たちが「自由さ」に戸惑っているのであれば、それは私たち大人も「自由さを苦痛に感じている」と言うことかもしれない。
そんな大人たちから「自由について考えなさい」…と言われてもそれはできなくても当然…。大人たちにとっての苦痛の解決を子供たちが担わされるとしたら、それを拒否するのは子供としてあたりまえ…拒否は子供の当然の権利だと思う。

子供たちの空想の世界観を大人たちが賛美する姿を目にすることが多い。
けれど、私はその見方には否定的だ。
なぜなら、彼ら彼女らの空想の世界観は、大人たちが思う空想の世界観では無いと思うから。
確かに、子供たちの自由な発想に大人たちが感動を覚えることもあるかも知れない。
しかしその感動とは、大人である自分たちの空想が子供たちの空想とは異なるものであるかもしれないことを、忘れてはならないと思う。
子供たちの空想の本質を感じることができず、「子供たちは自由でいいよなぁ…」
「気楽でいいなぁ…」と言っては、子供たちの空想に大人たちが浸る姿を見るにつけ、それが一歩間違うと、大人が子供の空想に依存する…あるいは、子供たちに大人がつくり上げた子供らしさを強要してしまう危険性をいつも感じてしまう私…。

私は、子供たちはリアリティーの中に生きているのだと思う。
子供のたちの目に映るこの世とは、目に見える姿も目には見えないものを空想として語る様子も、本質的にそこには全く区別が無いのだと思っている。
大人たちが褒めたたえる、子供たちの空想の世界観は、子供たちにとってはこの世のリアリティーでしかない。
それを、大人たちが子供だけが持ちうる自由な空想の世界観である賛美しすぎることは、実は子供と大人の間に線引きをすること…
「あなたたちが感じている世界はあくまでも空想の世界なの。自由に空想していられるのはいまのうち…ほんとうの世界はそうじゃないのだけれど、私たち大人にあなたたちのその空想をしっかりと味あわせてちょうだい」…ってことにもなりかねない。
ようするに、子供たちを大人たちが利用することにもなりかねない。

大切なことは、子供たちの視点に立ってこの世を見ること。
子供たちの為…子供を大切にする…とか言って、子供の感性を大人の勝手に利用しないようにすること。

私たちは本来、誰も皆…、自由な発想と感覚を持ってこの世に生れてきた。
誰しもが、目に見えるものも見には目ないものも、全ては一体となってこの世の中をつくり上げているという感覚を自由に語ることができていた。
しかし、その自由さを持ち続けて生き続けるのは辛い。
見えない人に対して、それでもそれは在ると言い続けて生きることは、とても辛い。
見えない人はそれでもそれがあるのならそれを見せてみろ…と次から次へと迫ってくる。
そして、一人…また一人と、その辛さから解放されてゆく道筋。
それが、子供からが大人になる道筋なのかもしれない…。
やがて、かつては子供だったけれど既にそれを手放してしまった人々…大人たちは力づくでその自由な感覚を奪い取ろうとするやもしれない…。

「自由」を持ち続けて生きることは辛い。
でも、その自由は必ずあなたが生きる為に一番大事な力となるもの…だから決してそれを手放してはいけない。
これをどうやって、子供たちに伝えれば良いのか…。
それは、自由を決して手放さない姿を、この世に「自由はある」という姿を、子供たちに見せ続けるしかない…感じてもらうしかないのだと思う。

小池マサヒサ 記

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何をして伝統と捉えるのかの解釈はとても難しいのかもしれませんが、死生観をあえて伝統として捉えてみると、死後も魂は村のそばで子孫たちを守っているもの…それが日本人の伝統的な死生観だったと言うことができます。
生と死はたえず繋がっていて、この世の半分は生身の身体を持って生きる生の世界、半分は身体を持たない…生の世界からは見ることのできない魂の世界…。ようするに、目に見える世界と目に見えない世界とで成り立っているのがこの世である…という考え方が、長く日本人の思考の根底をつかさどっていたのだと思います。

目に見えない世界とは想像の世界である…とも言えますが、現代に生きる私たちにとっての想像の世界とは、「ほんとうは存在しないことを想像した世界」であるのに対して、かつての多くの日本人にとっての想像の世界とは、「目には見えないものを想像した世界」…「無いの想像」に対する「在るの想像」ということであり、
単に想像とは言っても、『思考の根底をつかさどるもの』によって言葉の意味にしても行動の目的にしても全く異なるものになってしまうことに気付かされます。

世界と日本にとっての近代という感覚にはずれがあるとは思いますが、日本人にとっての近代…太平洋戦争終結後の私たちは、死をタブーなものとすることで、不都合なものは見ないという時代をつくってきたとも言える。
…結果、そうすることによって、急速な戦後復興と経済発展を遂げることができたという見方もできるような気がしています。

そうやってつくられた現代という社会に起こった昨年3月11日の大震災によって、私たちは、荒れ狂う自然を目のあたりにし巨大津波を体験した…、原発が大事故を起こしたことによっていまも目には見えない死が私たちに忍び寄ってきています…。
原発とは、死をタブーにしながら歩みつくり上げてきた象徴であるとも言える…私たち日本人が、戦後からいままでずっとタブーにし続けてきた死を封じ込める手立てがいま無くなりつつあるのかもしれません。
これまでずっと、死をタブーにして…見たくないもの、臭いものには蓋をしながら暮らしてきた私たちにとって、死の気配はとても恐ろしく感じるのは当然のことだと思います。


Richard Long

死のタブーとすること、それは「生命に対して目を閉じる」ということです。
3.11という災害は、死をタブーにしてきた…生命に対して目を閉じてきた私たちに対して起こった災害です。
死は私たちばかりでなく、この世の全ての生命にとって避けることはできないもの。
それは動物や植物といった生物だけで無い…。
鉱物や水や空気だって生きている。地球そのものが生きているし、絶えず変化を繰り返しながら私たち人間が想像できるはるか先に地球にも死は訪れる…。永遠に変わらず在り続けるものなど、この世には何一つとして存在しないのです。
にもかかわらず、この世から、死をタブーにする…見ないことにして生の絶対化を図ってしまうのはなぜか。
3.11を経験した私たち、日本人だからこそ、これについて真剣に考えなければならないのではないかと思うのです。

私たちは死をタブー化し、生の絶対化を図ることによって生きる目的だけを抱えてしまった。あくなき生の追求に応じる社会…いまを如何に快適に生きるかだけに焦点をあてた社会を形づくってきた。
と同時に、とても小さくて弱い私たち一人ひとりがそれぞれ「生きる目的」を決めなければならない…という暗黙のルールがひかれた社会を生きている。
そんな弱くて小さな私たち一人ひとり、それぞれが、生きる目的を探し出そうとした途端、標準的なるものや一般的や平均的…という巨大なものは一斉に私たちに襲いかかり飲み込もうとする。
巨大なものに抵抗し戦い続けることはとても難しいということを日々感じながら生きる…。
そうやって、私たちから『生きる力』を奪い去ってゆく社会…この社会の根底を支えているもの、私たちの思考の根底をつかさどるもの、それこそが生の絶対化なのだと思います。

私はいま何よりも、生命に向き直ることこそが重要で、その為には、死をタブーとしてはならない。
死を私たち権利として取り戻す…というと、恐ろしくなって逃げてしまう人もたくさんいるとは思いますが、死を語らずも、数多くの生命への出会いの場をつくることによって、必ずや日本人の伝統的な死生観を取り戻すことができるのではないか…、日本人にとっての伝統的な死生観は、グローバル化する現代社会が抱えてしまったたくさんの問題にとっての最も大切な解決への第一歩だと私は思います。

小池マサヒサ 記


Richard Long 「walkrun」

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「自然をまもり大切にする」…
いまを生きる私たち日本人の殆ど誰しもが、これを否定しないでしょう。
自然をまもること、自然を大切にすることは、私たちが生きる現代社会にとっての共通の課題…あるいは目標と言って良いのかもしれません。

美術家でありたいと願う自分にとって『自然』はその出発点として何よりも重要です。ここで言う自然とは、森や川や山、木や石や水…といった姿かたちあるものである場合もあるし、自然な状態や自然な気持ち…など、姿形を伴わない「自然」の場合もあります。
とはいえ、私は表現を「自然をまもり大切にする」ために用いているつもりはありません。表現には多かれ少なかれ、メッセージ性が含まれていないとも言い切れませんが、それでも表現はあくまでも私の主観的な視点から出発し捉えた「いま」であり「ここ」でしかない…私の主観を他者に強要するつもりはありません。
ただし、私がいま、自然の中に何を見て何を思っているのかについてを、自分の仕事をとおしてたくさんの人々に感じて頂きたいとは思っている。
私の仕事が時として、「自然をまもり大切にする」という気持ちへとつうじることもあるのだとすれば、それは美術家としてとても嬉しいことだと思います。

東京から長野に生活の拠点を移して3年半…。森や山、自然との関わりが徐々に増し、最近では森を通じて子供たちと関わることがとても多くなってきました。

私が生まれ育った場所は、現在私たち家族が暮らす善光寺門前町からもほど近い
山と川と森のすぐ隣り…いわば、森と町が接する境界線上のようなところでした。
そんな幼少から少年期の私にとっての自然とは、すぐそこにあるもの、いつもずっと変わらないもの、私よりはるかに大きなもの…であって、自然とは「まもるもの」でも「大切にするもの」でも無かったような気がします。

私にとって、「自然をまもり大切にする」といった意識はごく最近になって芽生えたもの。
おそらく、その意識はArtとの出会いと深く関係しているであろうことは間違いなく、東京という大都市でArtに出会ったことも大きな要因であったのではないかと思っています。

ところがなぜか…。
東京に暮らしている頃には感じていなかったのに、20数年ぶり…長野市に戻って3年を経過した最近になって、「自然をまもり大切にする」と聞く度に、「あれっ…なんだろう?」と、妙な違和感を感じている自分に気がつきました。
それと同時に、少年の頃に感じていたあの感覚が自分の中にいまも変わらずあることにも。
そしてふと思ったこと。
あの時私は、「まもられ、大切にされている」と思っていた…と。

すぐそこにあるもの、いつもずっと変わらないもの、私よりはるかに大きなもの…。
山や森を駆け回っていた少年の私が経験をとおして、実感として感じていた自然。
そんな自然をずっと感じ続けていたい。

だから、現代社会に生きる私たちが「自然をまもり大切にする」という意識を持つことはとても大切なこと。
ただし、この社会をどう捉えるかは重要で、自然と人間とを区別する…あるいは、人間本位の社会の捉え方は、人間のおごりたかぶりを露呈し、ややもすると、自然は人間が支配できるもの…という愚かな幻想を抱きかねないとも思うのです。

哲学者の内山節氏は、著書「内山節のローカリズム原論―新しい共同体をデザインする」の中で、昨年の3.11の大津波の後にも海を信じる漁師たちについて触れながら、自然と災害の関係性についてこう言っています。

「日本の社会やコミュニティーは自然と人間によって構成されているというのが伝統的な考え方です。人間のパートナーとして自然がある。その、社会を構成している半分のメンバーである自然には今回災害が起きていない。人間だけに災害が起きているということで、このこととこれからどう折り合いをつけていったらいよいのか。この問題とどう向き合っていったらよいのか、これからの課題だと考えています。
ただ、地震や津波は自然にとって災害では無いのですが、じつは原発事故は自然にとっても災害なのです。」

RIKI-TIRBAL 小池雅久 記  2012/8/1


若林 奮 「緑の森の一角獣座」

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