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Archive for 2012年11月

私が生まれ育った町の人々と一緒に旭山の麓にある「カタクリの森」の作業に出かけた。
いまから15年ほど前まで…旭山の北側の森の一画にカタクリが群生しているのが発見されるまで、ここに足を踏み入れる人は殆どいなかったそうだ。

かつて此処には小さな畑があった。
友達とこのあたりまで探検に来ていた自分は此処が畑だっことを知っている。
あの頃…自分たちがここに来なくなった頃、畑にも人が来なくなったらしい。
森の中にあって日あたりが良いこの畑には蟻たちが残り、そんな蟻たちの習性を知りつくしていたカタクリは、甘い匂いを放ちながら蟻たちを誘い、種子を運ばせ、此処に根を張った。
いまこの群生地と周辺の森は地元の人々によって整備されていて、春の10日間程の間は、カタクリを見るためにたくさんの人々が此処を訪れている。

「カタクリの森」が、森と私たちの暮らしをつなぐ森にできたらいいなぁ…と思っています。この森を一緒に整備してくださる方と一緒にそんな話もしたいと思っています。
ここしばらくは、倒木や立ち枯れの木を伐採と整理の作業ですが、善光寺門前まちにあるマゼコゼから歩いて20分もあれば行けるとても美しい森です。
ここの紅葉も終盤ですが、もうしばらくは晩秋の森を楽しめると思います。
お子さんと一緒に遊びに来たい方も歓迎します。
とっておきの山の小道を御案内します。
FBもしくは、マゼコゼ(026-225-9380)までご連絡ください。

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「風土感覚」

中央通り大門交差点から国道406号線を西へ15分ほど歩いたあたりに新諏町がある。
わたしはこの町で生まれ育った。
長く暮らした東京から長野に戻った…は正確には、生れ育った町の手前徒歩15分まで戻ってきたということだ。

幼少から少年時代を山と川と街の狭間にある町で育ったことは、自分という人格形成に於いて極めて重要であることは間違いない。

わたしの細胞の一つ一つ…遺伝子の深層にはこの町で呼吸することによって沁みついた風土感覚とでも言うべき感覚が潜んでいる。

森の土の堅さは、木々の間から差し込む太陽の光や、川から立ち昇る霧や、鳥や動物や、時折子供たちが遊びにくることによって決まるのだということを…祭りの神楽の音色や花火の火薬の匂いは、森の木々を成長させる為には欠かせないということも…。
わたしはここを感じることをつうじてこの世との繋がり方を知った。
わたしはこの風土感覚によっていまこの世を生きている。
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「旭山」

善光寺の西の方角にある旭山は長野市街地から最も近い場所にある。
私が中学生ぐらいまでだからおそらくいまから30年ほど前までだろうか…旭山の中腹にある岩穴には観音様が祀られていて、新諏訪町側…中部電力里島発電所からの山道を多くの参拝者が一年中絶えること無く登っていた。
この観音堂までの山道は狭く急で滑落事故も多かったことから、旭山の南側の平柴に観音堂が移されてからはこの山道を登る人は殆どいなくなったけれど、私にとって最も身近な山は旭山であることはいまも変わりない。

先月、長野駅に熊が出没したという騒ぎがあった。おそらくその熊はこの旭山か、もしくはその奥に続く山から迷い出てしまったのだろう。
その理由には様々な憶測があるけれど、なにより、長野市とはそれほどに山に近いところに築かれた町であるということを私たちはすっかり忘れてしまっている…ということについて考えさせられる出来事だと思う。

かつて…江戸時代には善光寺領だった旭山。
善光寺本堂を建てる際にはこの山の木もたくさん使われているそうだ。
西後町にある「紫雲山頼朝院 十念寺」は、その昔、源頼朝が善光寺を参拝したおり、旭山の上にかかった紫雲と共に善光寺如来が顕れ、頼朝に十返の念仏を授けられたことから始まったと伝えられている。
石堂町にある「刈萱山西光寺」には、その昔、この町に暮らす木こりが古木と勘違えて切ってしまった、朝日山(旭山)にいたという大蛇、小蛇(おおにょう、こにょう)を祀る塚がある。

此処に暮らす人々にとってこの山がある意味がどれほどのものであったのかは、この山にまつわるたくさんの伝説や史実から窺い知ることができる。
かつてこの山が此処に生きる人々にとって無くてはならない山であったことは間違いなさそうだけれど、それはまた、この地で暮らす人々の生命とは旭山はもちろんのこと…それ以外の山も、山という生命…森という生命と繋がり続けているということを感覚的に理解していたということではないかと私は思う。

いま私たちは山から何を学んでいるだろうか。
熊がこの山から街に迷い出て来てしまったという事実から、私たちが此処で生きる為に必要なことを学ぶことができるだろうか。
山を生命として捉えているだろうか。
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宿題をこなす娘を見るたびに自分の頭をよぎるのは、
『 知ることは感じることの半分も重要ではないと固く信じています。』
という、自然科学者 レイチェル・カーソン…
彼女の遺作となった、The Sense of Wonderの中の言葉。

I sincerely believe that for the child, and for the parent seeking to guide him, it is not half so important to know as to feel. If facts are the seeds that later produce knowledge and wisdom, then the emotions and the impressions of the senses are the fertile soil in which the seeds must grow. The years of early childhood are the time to prepare the soil. Once the emotions have been aroused — a sense of the beautiful, the excitement of the new and the unknown, a feeling of sympathy, pity, admiration or love — then we wish for knowledge about the subject of our emotional response. Once found, it has lasting meaning. It is more important to pave the way for the child to want to know than to put him on a diet of facts he is not ready to assimilate.

ああ宿題しなきゃ…という娘に、「いいじゃんそんなのやらなくても」という親…。
「やらなくたっていい…って言ってもどうせやるんだろ…だったらさっさとやっちまいな…」と言いながら、ああ!クソ!!いったい俺は何言ってるんだ…と悩む毎日。
そんなことするよりずっと大切なことがたくさんあるのに。
お前にいま見せたいものは山ほどあるんだ。
ああ!!もう!!!!

ごめんな…茉莉花。
みんなで一緒に山に行こうな。

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