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Archive for 2013年2月

農山漁村文化協会(農文協)の編集者の方から、半月ほど前に信濃毎日新聞で記事として取り上げられたウッドガスストーブ(TLUD Stoves)に関する取材がしたいと連絡があり、その取材を引き受けた。
何という題名になるのかは忘れてしまったけれど、近々バイオマスストーブを特集した本を出版するとのこと…本や新聞に写った自分の姿を見るにつけ、う~ん…とがっかりすることは多い。取材を受けるまでは良いけれど完成した本はあまり見たくないのが本音。

まぁ…それはそれとして、ここ数年は自分が理解しているロケットストーブやTLUDについてを人に伝えるためのワークショップを開催したり、時には依頼を受けて制作 設置することもあるのだけれど、「なぜそうするのか…」を伝えることはとても難しいことだ…と思い続けたまま いまに至っている。

ロケットストーブという仕組みは、ここ数年の間に猛烈な勢いで知られるようになった。
「ロケットストーブ」と日本語で検索してもヒット0だった数年前…この名称がこれほどまでに知られるようになるなんてことはまったく想像できなかったけれど、自分がRocketStovesに惹かれたのは…と考えてみると、果たしてロケットストーブはRocketStovesなのだろうか…と思うのだ。

3.11を経験した私たち…。
いままでと同じではない…と思い始めている人々は多い。
ロケットストーブへの注目は3.11があったからだけではないにしろ、社会の揺れが少なからず影響していることを否定することはできないとは思う。
…とは言え、日本は未だ世界有数の木材輸入大国であり続けているし、日本の山は荒れ続けているのが現実だ。
たかがロケットストーブで問題が解決できるわけがないと言われるかもしれない…。
でも自分は、私たちが抱え込んだまま置き去りにしてきた重大な問題に対する突破口のような何かを感じたからこそ自分でつくってみたいと…いま日本に暮らしている自分だからこそ必要なものだと思った。それがRocketStovesだった。

この世は「生命」に満ち溢れている。
それは姿かたちのない何か…でもその何かは確実にある何かだ。
そして私たちはそれを感じることによってこの世を生きている。
自分だけじゃなく他人を大切に思うことができるのも、それはそこに生命があると感じることができるからだ。

ガスレンジの摘まみを回すだけ…押すだけで火が点くことに驚くことのないこの国に生きながら、毎日何時間もかけて焚き木を探し求め歩き続ける少女のことを想像することは難しい。
いまなお、焚き火で調理せざるを得ない人々が世界の人口の半数、調理することから発生する煙を吸い込むことによって命を落とす人々は、年間に約150万人いることを想像することは難しい。
自分にできることは、少女が使っているというRocketStovesを自分でつくってみること…そしてそれを使ってみること。
そうすることによって見えてくるものがあるとすれば、それは「生命」だと私は思う。

TLUDは、木の中にある燃焼性ガスを取り出し燃焼させることのできるシンプルなStoves…木の中にある燃焼性ガスを燃やすことによって炭素を封じ込めることができる…ようするに『炭』をつくることができる装置でもある。
そうしてつくられた炭を土壌に埋めることによって土壌中の微生物が増え、植物の生育は促進される…。
この燃焼の仕組みを自分でつくりたいという人が増えてほしい。
そしてできることなら、その炎が生きていること…この世に満ち溢れる生命を感じてほしいと思う。

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「ヨキ」

我が家が長野に暮らしてはじめて4度目の冬。
今年はなんだか穏やかな冬が続いていて、まだ2月のはじめ…いま頃が最も寒くなるはずなのに既に春の気配が漂いはじめていて、冬好きの自分としてはなんだか物足りない。

ここに暮らし始めてからことあるごとに思うのは、これほどにも山が近くにあるのに、山の暮らしは随分と遠くにあるということ。
振り向けばすぐそこに山があるこのまちで、人々は町がある方角ばかりを見ようとしている気がする。

山の暮らしをなめちゃいけない。
いま山にいる人達だってほんとうは山から離れたいと思っているんだ。
昔とは違うんだ。
山はあんた達のような街育ちが憧れだけで暮らせるようなところじゃない。

…何度もそう言われた。
そうかもしれない…。
でも、だからこうなったんだ…とも思う。
それが誰かのせいだとは思わない。
山の暮らしを背にして街ばかりを見ていたのは自分なんだし…。

山仕事をする人たちが使う道具のなかに、ヨキ と呼ばれる道具がある。
斧(オノ)のことを山で働く人々はヨキと呼ぶ。
山道具とは言ってもいろいろだけれど、自分にとって身近で大切な山道具がこのヨキ。
自分は、ヨキが無ければ山仕事に行けない…と言うことではないけれど、山と自分を近づける為に必要な道具がこのヨキだと思っている。

ヨキの刃には4本筋、あるいは3本筋が刻まれている。
4本筋は、「地(土)・水・火(陽)・風」の四気(ヨキ)を、3本筋は五穀と酒…山の神への供物である 三気(ミキ)…を意味するそうだ。
四気の「地(土)・水・火(陽)・風」は、木が育つためには欠かすことのできない大切な要素。
かつて、木こりたちは、木を伐る前に、その木に宿っている霊に感謝の祈りを捧げ、ヨキを立てかけ祈ってから木を伐ったそうだ。
木という姿をした生命に支えられて私たちは生きることができている。それをいつも心に刻む道具…それがこの祈りの道具…ヨキなのだと思う。

自分は林業従事者では無い。
ましてや、山に暮らしてもいないし、山仕事をしなければ日々の暮らしが滞る…と言うわけでも無い。
でもそんな自分がいまこうして、ここで生きていられるのは、そこに山があって、その山で暮らす人々がいたからだと思うようになった。
それに気付いたのはもしかすると、その道具が「ヨキ」と呼ばれている…と知った時だったような気がする。

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山に暮らす友達の のぶちゃん がFBに投稿していた文章に心の奥で震えるものを感じた。
こういう感覚は実に久しぶりだ。

私たちが生きるこの地には古くから言霊(ことだま)と呼ばれる、“言葉に宿る霊的な力“ 信じられてきたけれど、それはまた、真に心の底から沸き起こった言葉であれば、距離が離れていようとも、たとえ誰かを介したとしても、真の言葉には、響き続け魂を震わし続けさせる力が宿る…ということなのだと思う。
小説や詩や短歌、エッセイでも日記でも。
微塵も企みの無い言葉…つくられた言葉では無い…
そうした言葉は、やはり降りてくるもの…というのがふさわしい。

facebookというシステムを介したとしても、発せられた言葉にそうした力が宿っているとすればやはり同じだろう。
…けれど、その下の方にあるシェアというボタンを押しても、自分の中の魂がその言葉に同調し響いたことを…その言葉を響かせ続けることができないのではないか…と自分は思ってしまう。

そもそも言葉の響き(ヒビキ)とは、何があっても壊れないような頑強なものでは無い…
言葉が発する響きのエネルギーがいくら強くとも、言葉とはほんらいとても繊細で微細で壊れやすいものだ。
この世にあるものの中でも極めて純粋であるがゆえに…世界中で、霊…あるいは神は純粋で壊れやすいものを好むと信じられてきたように…言葉の繊細さ純粋さには霊が、魂が宿りやすいと信じられてきたのだろう。

それはちょうど、コップの中にストローを差し込みぐるぐると同じ方向に回し続け、そっとストローを抜いた時に残る渦のようなもの…それが響き(ヒビキ)
その渦を、響きを乱さないように…渦が次第に弱くなりやがて水の動きが止まるその瞬間まで大切に響かせ続ける…。

この繊細で壊れやすいものをどうやって次へと渡そうか。
言葉を響かせ続けるにはどうしたらいいのか。
この世にArt があり続けていること、自分がずっとそれに魅了されているのもきっとそれは「響き」を感じるからなんだと思う。

…ということで、のぶちゃん、
文章をそのまま載せさせてもらいますね。
これで響き続けるのかどうかはわからないけど…。

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「チューニング」

『いくら祈ったって世界は平和になんかならないじゃないか』と思う時期もあった。
でもある時、ふっと気がついた。
いのりがあるその時、こころはとても平和じゃないか、
そしてそれを知っているじゃないか、と。

願いとは違う
何か自分を生かしているものに、チューニングを合わせる時
流れてくるエネルギーがある。
光のような、水のような、電気のような、、、
あぁそうだ、この感じ、つながっている何か。
ひと時、平らに澄んだ満ち足りた気持ちになる。

私がアートに希望を抱くのは
人がこの感覚を捉えて、表に現そうとする、
自由な魂の営みだと感じるからなんだ。

武器を持たないその手で何かを表現しようとする者にとって
『いのり』は
少なくともゆるぎない感覚と
生きる力を与えてくれるのではないかと
私は思っている。

そしてそれは当たり前のように 自然に
日々の 暮らしの中にあっていいんじゃないかと思う。

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写真は、のぶちゃん がつくったTLUD
まさに 山の祈りのStove って感じ。

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例えば…、お店に来たお客さんと話すなにげない会話が引き金になって、随分と前に経験した記憶が呼び起されるやいなや、それまで何の関係も無かったような出来事が次々と繋がりはじめ、二度と切り離すことはできない関係性が現れる…。

このような関係性とは、単に二つ三つの経験や情報が繋がって構築されるものでは無く、私と会話した人の声質や表情、その日の天候、窓の外を足早に通りすがるネコの姿、もっと話したかったら先におやつよこせ!と会話に割り込もうとする犬…もまた重要な要素であって、それらによってつくられる全体としての環境 が、自分の脳の何処かにしまい込まれていた過去の記憶や、未来への期待に響かせ震動させる。

「いま・ここ」とは、私に起こっていることを私が認識した思考の現れ…思考とは常に「いま・ここ」を出発点として過去や未来との間を行ったり来たりしながら一瞬を永遠へと変える力を持つものだ。

かつて『表現』に惹きつけられ憧れ、いまもなお美術…あるいはArtに魅了され続けている私ではあるけれど、「表現すること」とは美術のためでもArtのためでも無く、「いま・ここ」を生きるため…に近い。
あるいは、それは自分の内側と外側との間となる境界線…境界面として現れるもの…。それが無いと自分は自分自身がつくり出した思考の中に埋没したまま身動きすることすらできなくなる…そんなものに近い。

表現に惹きつけられ憧れ、美術あるいはArtを自分の「いま・ここ」を映し出す『場』として意識するようになった。
そうして見えてきたのは…経済が成長する過程とは、人間力や生命力が衰退してゆく過程と同じ方向・角度・速度で進行する傾向にあるということ。
…だからと言ってそれがそのまま、経済成長=人間力や生命力の衰退という意味ではないけれど、経済は私たちの「思考」を停止させる傾向にあるものに寄り添って成長を繰り返す…あるいは、私たちをその場に強引に止まらせる…拘束する力を持っているということは忘れるべきでは無いと思う。

表現がArtへと変貌する過程にあるもの…。
自分は少なくともArtにしろ美術にしろ、それをentertainmentとして捉えてはいない。
「表現」が全てArtである必要は無いけれど、Artとしての表現には既にentertainment経済がしっかりと寄り添っていることは事実なのだ…。

その表現がArtなのか?…Artでなきゃダメなのか?…それがArtである必要性があるのか?
そんなことを考えるまでも無く表現する者たちの姿を前にした時、心の奥底で何かが響き震動している自分に気付く。

ヒョウ柄のストッキングを頭からかぶり、真っ赤なスプレーで消費社会の象徴ともいえる広告モデルたちを殺すゼウス…。
「人々は誇大広告のもたらす潜在的な影響力に気づいていないんだ。僕は赤いスプレーで広告モデルたちの額に点を打って“殺す”ことで、広告の力を剥奪するんだ」
“都会の山岳部隊”と名乗り、高層ビルのトップに「タグ」を残し続けるピグメウス。
廃材を利用し、あらゆる場所に無断で住居を建設することで消費社会に反抗する、アダムス&イッツォ…。

彼らのそれがArtであるかどうかなんてことは一人ひとりが考えればいいことだ…。
だがそこには明らかに表現がある…と私は思う。
そしてまた、「いま・ここ」にとって最も重要なことは、
一人ひとりが思考する力を取り戻すこと…。
「いま・ここ」を生きる力を奪おうとするものが何であるのかを知り、それに対してきちんとNOと言うことではないだろうか。

「Inside Outside 」

マゼコゼにDVDあります。
近いうちに、これでも見ながら話しましょう。

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