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Archive for 2014年2月

いわゆる「就職」を経験することも無しに、この歳まで生きてきてしまった。
…なので、「就職」という言葉を聞いても、正直なところそれが何を意味するのかがわからない…この観点からすれば、私はやはり『KY』なのかもしれない。
就職するのが正常な状態という空気が満ちているこの世の中で、その空気が読めず…読まず…にいる私と、ニートや引きこもりと言われる人々との間には、さほどの違いは無い。

ニートとは、Not in Education,Employment or Training,を略した用語だそうだが、既に英単語として使われることは無く、日本でもここ最近は、ニートよりも『引きこもり』という用語の方が多用される傾向にある。
日本におけるニートは、15歳~35歳までの若年無業者とされ、その算出方法は、15歳~34歳の非労働力人口…就労していない人口の中から学生と専業主婦を除き、求職活動に至っていない者と定義しているそうだが、いわゆる「家事手伝い」は、現在の定義ではニートに含まれない。また失業者のうち、正社員及び派遣社員での就労を希望する者であれば、たとえ無業者であっても、具体的な求職活動に至っていない場合でも「ニート」には分類されない。
だがその一方、アルバイト及びパートタイマーなど一部非正規雇用での就労希望者の場合、就労を希望する無業者のうち、求職活動に至っていない者であれば「ニート」、具体的な求職活動に至っている者であれば「フリーター」に分類される。

『引きこもり』は、仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6ヶ月以上続けて自宅にひきこもっている状態。時々は買い物などで外出することもあるという場合も「ひきこもり」に含めるとしている。

内閣府の調査によると、15~34歳の若年無業者は63万人,15~34歳人口に占める割合は2.3%。フリーターは180万人,15~34歳人口に占める割合は6.6%。引きこもりは、69.6万人。
http://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h25honpen/b1_04_02.html

こういったおざなりな定義とやらを目にするたびに、腹の奥でむかつきを感じるのは、自分もかつてこういった定義の中で分類され、やれニートだの、やれフリーターだのと呼ばれたりしながら、真夜中のネズミーランドを徹夜で徘徊していたドブネズミだったからだろうか。
確かに、就職はせず、求職活動にさえ至らなかった。
だが、定義上の働き方にはそもそも限界があり、それ以外の働き方はカウントされないだけなのだ…働きとはそんな単純なものではないはずなのに。
就職しないことを弁護するつもりも、言い訳するつもりも無いけれど、働き方まで指図される筋合いも無い…。
安定なんて糞喰らえだと思って吠えてみたこともある…けれど、そういう遠吠えは単なる自己満足にすぎず、結局は、世間のおざなりな定義を助長するだけだということ…そんなことをしている間に重苦しい空気でこの世の中が一杯になってしまうことを知った。
だからこそ、世間に満ちる空気をはね退けるだけの勇気と知恵を持ちたいと思ってきた。
強くなる…この世の中はもっとずっと広いはずだ。

就職しない、正規雇用されない、組織に属さないということは、何の束縛も受けない代わりに、何の後ろ盾も持たないということでもあるが、組織に属していないからといって、この世をたった一人だけで生きなければならないと言うことでも無い。
強いて言えばそれは、身の丈以上に自分を大きく見せることはできない生き方だということか。

社会学者の土井隆義は、著書「友達地獄-『空気を読む』世代のサバイバル」(ちくま新書 2008年)で、誰からも傷つけられたくないし、傷つけたくもない。そういう繊細な「優しさ」が、いまの若い世代の生きづらさを生んでいる と述べ、そうした関係性を「優しい関係」と呼ぶ。
他人と衝突することを避け、自分の態度を決めるには、絶えず他人の出方を伺わずにはいられない。でも、そこには誰もいない…他人とは、いわゆる「空気」のことなのだ。
空気がどの方向に向かっているかを絶えず察知しつつ、自分をその方向に合わせることに全精力を注ぐあまり、自分の考えをもとに行動することに躊躇してしまう。
…もはや、そうした「優しい関係」は、若い世代に限らない。

空気が読めない…読まない人々は、区別され、排除され、社会は益々優しい関係という空気で満たされてゆく…そこにできる空気感…それこそがファシズムというものではないのか。

全体という空気感に満たされた社会から無業者と呼ばれ区別され、排除されるニートや引きこもり、そしてフリーター。
そんな社会は、そうした15歳~35歳までの若年無業者を区別するに飽きたらず、幼い子どもにまで、空気を察することを強い始めている気がしてならない。
多動性、不注意、衝動性といった行動を特徴とする発達障害もしくは行動障害と呼ばれる、「注意欠陥・多動性障害…ADHD」や、「アスペルガー症候群」と呼ばれる状態は、まさに社会を満たす「空気」との関係性に於いて判断されることからすれば、それが障害であるかどうかの判断は、極めて慎重を期すべきだ。
そもそもこうした症状が障害であるかどうかという判断は、人権、尊厳に関わる重大な問題であり、軽率な、誤った判断は暴力にも成りかねないことを忘れるべきではないと思う。

社会のおかしさを感じ、気付き、声をあげることはけっして間違ってはいない。
社会を覆い尽くそうとする空気感に対して、我慢なんかしなくていい…息苦しいと声を上げている存在に感謝。

大丈夫…こんな世の中だけど生きてやろう。
一緒に強くなろう。

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先週末の大雪の影響は大きく、スーパーやコンビニの商品のあれこれが品薄状態なようだが、先日、大雪の中はるばる東京から、マゼコゼで開催中の展覧会を見に来て頂いた方にお土産をと、近くのお店にケーキを買いに出かけた妻は、大雪の影響で生クリームが届かずケーキが作れないと言われ別のものを買って帰ってきた。でもこのお店、地元の厳選した素材…長野県産厳選小麦100% 、濃厚で深い味わいなオブセ牛乳、厳選したコクのある甘さの安心・安全たまご、地元蜂蜜 …でつくっていたはずでは無かったのか…と思ったりもしたのだけれど、まぁ世間には色々と事情もあるのだろう…。

その大雪が降る直前、娘の通う小学校のクラス臨時懇談会が開催された。
この臨時懇談会は、子供たちの担任の先生に対する切実な要望を、子供たちが授業参観の後のPTA懇談会の議題に取り上げて欲しいと書いた手紙が発端だった。
この手紙、子供たちの気持ちをストレートに書いた手紙だったとは言え、その内容の読み取り方によっては食い違いが生じる内容だったとも言える。
ある一人の男子児童の行き過ぎた行動を注意しない担任に対する要望が書かれていた手紙の内容は、結果、その男子児童に対する一方的ないじめだと受け取ったその男子児童の母親が、なぜか私の娘を一方的に責めたてるという事態を生み、これを期に、クラスが正常な状態ではないあれこれが明らかになった。
今回の臨時懇談会は、そうしたクラスの現状を各家庭の親御さんに知ってもらい、それに対する学校側の対応と家庭からの意見を聞く為のものだった。
懇談会は、思った以上の出席率に加え、出席したどの親御さんからも意見が聞けたことはとても有意義であったとは思う。
しかし問題の本質は依然として曖昧なままだ…。
このまま時間が経つことによって、曖昧さはより曖昧さを増し、そのうち何となんとなく問題は忘れ去られてしまうような気がするのは私だけだろうか。

いま起こっていることをあえて簡単に言うとすれば、「担任と子供たちとの間に信頼関係が築けていない」と言ってしまうこともできる。
だが問題の本質は、『それはなぜか』という部分であり、と同時に、こうした現状は娘のクラス、学校に限ったことでは無く、何処の学校でも少なからず、日本中の、あちらこちらの学校で日常的に起こっていることであることを否定できない現状からすれば、これは既に担任の力量不足だけで済ませられるような問題では無いと私は思う。
この問題は根が深い…私たちが生きるこの社会が抱えた様々な問題はきっと根の深いところで必ずや繋がっているはずだ。

もしも仮に、娘のクラスの担任が変わり、その結果クラスに落ち着きが戻ったとしても、それは根本的な問題の解決にはならないのではないか…。
もちろん、クラスや学校に落ち着きが戻ることを否定するわけでは無い。だがしかし、問題が起こったから対処する…といった対処療法的な対応では、子供たちに信頼とは何であるのかを教えられるはずがない。
そうした対応を幾ら繰り返しても、学校は決して健康にはならないはずだ。

もちろん自分も偉そうなことばかり言ってはいられない。
今まで教育を学校任せにしてきたことは事実であり、そのことについては深く反省しなければならないと思う。
学校との間に信頼関係は築けているのだろうか。
同じ学校に通う子供の親と私との間はどうだろうか。
同じ町に暮らす人々との信頼関係は…。

そしてもう一つ…
以前から薄々感じてはいたのだが、今回の臨時懇談会での話を聞きながら思うことがあった。
それは、「想像するためには、まずはできる限り対象物に近づいてみなければならない」ということだ。

これは、私の職業ゆえか(美術家が職業であるかは微妙だが…)
私の暮らしのほぼ全てに『想像』は欠かせない。
私にとっては人が呼吸をするのと同じく、想像することがこの世に生きる為に必要な本能にも近い。
この『想像』とは、ただ闇雲に、悶々と思いを巡らすと言うことではない…。
ある意味、想像は最終的な方法だ。
目には見えない、触ることも、匂いを嗅ぐこともできなくなって始めて想像力が働く…。
だから、想像する為にまずはできる限り対象物に近づく…もしくは、ありとあらゆる角度から眺めまくる…そしてもうこれ以上近づけないとわかって始めて想像力を働かすのだ。
想像とは、体全体を使うと言ってもいい…。

学校も家庭も地域も、お互いが近づきすぎることを警戒し、お互いの距離を均等に保とうとしている気がしてならない。
近づこうにも近づけない距離がそこにあるような…。
想像力を働かすことのできない一歩手前…絶妙な距離感に保たれたところに、学校が家庭が、地域がある気がしてならない。
そうした絶妙な距離感を保とうとする社会に噂や差別が生まれるではないか。
絶妙な距離感を保てないような人は、世間から『KY』と呼ばれ、隔離される、あるいは排除される。
踏み込むことも、踏み込まれることもできない境界線が引かれ、その距離を保てるかどうかが重要視される社会…。
子どもたちはその距離感を感じ、そこを越えようとあがいている。
その声が聞こえないのか。
…。
もはや、そんな目には見えない線と距離感をいつも気にして、情報を集めまくっているような状況では無いと思う。

もちろんこれは私の想像だ。
でも私のこの想像は、目には見えない境界線をほんの少しだけ超えてみたからこそできる想像なのだ。

お互いがほんの少しの勇気を持って境界線を超えてみること。
そこにはきっと今まで見たことの無い世界がきっとあるはすだと私は思う。

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上手く言葉にできない歯痒さを抱えていた自分に言葉を探してくれた…というか、踏み出し切れない自分の手を引いたのはやはり娘ということか。
あの時…つくり始めてしまったものの、何かものたりさなを感じていたPlanterCottagteに、大袈裟に言ってしまえば、生命という大きな気付きを与えてくれたのは、娘の誕生だった。
それから6年後…そのPlanterCottagteを半ば強引に仲間たちに押し付け、家族を連れ、東京を離れ、生まれ故郷の長野市へと暮らしの場を変えた。
それは、娘が生まれ…彼女が小学校に入学する時までには、このまま東京での暮らしを続けるのか、それともどこか別の場所に移動して暮らすのかを判断しようと考えてはいたものの、結局ぎりぎりまで判断できずに、結果、東京という強力な引力圏から離れるには唯一、娘の小学校入学というタイミングを推進力として使うしかないと思っての強引な選択だった。
その娘はこの春、小学校の最後の学年になる。
そして彼女はいま、「学校はつまらない」と言う…。
またしても私は彼女に手を引いてもらうことになりそうだ。

今までずっと考え続けてきたこと。
それは、学びの場がつくりたいと言うことだ。
PlanterCottageをつくり始めてからいままで約15年間、ずっとそれを考え続けてきたと言っても過言じゃない…。
「学び」と言うと、誰しも「学校」を思い浮かべるのは当然で、…かと言って、学校がつくりたいのか…と言われるのが嫌で、今までずっと、あれやこれやで誤魔化してきたような気がする。
でもそうしたことはどれも自分の自信の無さの現れだったのかもしれない。

人が何と言おうと自分がつくりたいものをつくるんじゃなかったのか…。
いま、娘に、子どもたちにそう言われているような気がしてならない。

学校のここが問題だとか、教育が間違っているとか…そんなことは結局のところどうでもいいことだと思う。
最も大切なことは、いま自分の周りにあるものをとことん見て、触って、自分がつくりたいと思うものをとことん想像し、そして創造することだと私は思う。
それはもう誰かがやっている…なんて言っていたら、この世でやれることなんてもう何も無いのだし…。

いま私がつくりたいと思っているものが「学校」なのかどうかわからないけれど、自分で生きる力とは何かを考えた時、そこには、共に考え、学び、実践する場が必要だとずっと思いながら、あれこれやってきた。
だから私は、そうした場所がつくりたい。
人は生きるために働く。働くことが生きるために必要であるのなら、「働き」の中から学び、学びながら暮らしたい…と思う。

昨日の私の投稿に、私の大切な仲間がコメントしてくれた。
それは、私の好きな、山尾三省の詩だった。

若いころは 洗濯も 洗濯物干しも 仕事と呼べないことだと 思っていたが
今はもう すっかり悔い改めた
一枚 一枚 ばん ばんとはたいて うす陽にむけて
一枚 一枚 洗濯物を干す
こんな有難いことが この世にはある

(山尾三省-梅雨時-ながしどき-『祈り』所収)

今はまだ上手く言葉にはできないけれど、この詩がやけにしっくりきた。
学び舎をつくりたいと思います。

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長野市を中心とした暮らしと活動を始めてからもうすぐ5年。
この間のたくさんの出会いの殆どが、「カフェ マゼコゼ」という場がきっかけであったことは間違いない。
…とは言え、この場は、私たちが長野市に移り住む前、東京都国立市の住宅街の真ん中で13年間つくり続けてきた「PlanterCottage」という場づくりがあったからこそで、PlanterCottage無くしていまのマゼコゼはあり得ない…。
と言うよりはむしろ、場所と名称は変わったものの、その中身はまったく変わらず、今もあの場づくりは継続している…と言った方が正しいのかもしれない。

PlanterCottageをつくり始めた頃、『場づくり』という言葉がこれほどまでにメジャーになるとは思っていなかったが、家じゃない、店舗でもない、事務所でもない…人間の為と言うよりは、植物や虫たちの棲家をつくろうと思って始めたPlanterCottageを人に説明するために、都合の良い言葉を探していた私は、それを『場』と呼び、その場をつくり続けることによって、実に多くを学んだ。
ちょうどそれは、気温や湿度を測る為の百葉箱のようなもので、私はそこを訪れるる虫や、鳥や、人…から、その時々がどんな時々であるのかを知ることができていたのだと思う。
そんなPlanaterCottageと同じくマゼコゼもまた、私が、「いま ここ」を知る為の重要な百葉箱となっている。

仕事は何か…と尋ねられてどう答えるかはいつも迷う。
正直、その質問に答えるのは面倒臭いので、まずは職業は美術家だと答えることにしているのだが、それでも満足しないような場合に限っては、その相手が一番納得してくれそうな仕事を選びそれを仕事だと言うことにしている。
ようするにそれは、自分に出来ることなら何でもするのが私の仕事ということなのだが…。
そんな私が代表の「美学創造舎・マゼコゼ」がスタッフを募集するのだから、何をするのかわからないのも当たり前と言ったら当たり前か…。

少し前のこと…「学校は楽しくない」と娘が真剣に言った。
…いま私に何ができるのか。
考えなきゃならないと思う…真剣に。

美学創造舎 マゼコゼという場を通じて私は百姓に近づいてゆきたい。
この場づくりを通じて、百人百様の生き方、働き方を見つけたい。
もちろん自分一人で何でもできるわけじゃないけれど、それにしても、もう少しぐらい、生きる為にじたばたしてみてもいいんじゃないか…と思う。

何をするのかはわからないけれど、私たちと一緒に、美学創造舎・マゼコゼをつくるスタッフはとにかく募集してみようと思う。

https://mazekoze.wordpress.com/2014/01/29/「美学創造舎・マゼコゼ 運営スタッフ募集

 

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「想」

目には見えない。
匂いもしない。
音もしない。
手を伸ばしてみても掴めない。
覆い尽くされ、身動きがとれなくなるような。
気配。

悲しみは積み重ねられ、押し潰され。
痛みなのか。
悲しみなのか。
空しさなのか。

悲しみは、目には見えないからと言われ、
悲しみは、匂いがしないからと言われ、
悲しみは、音がしないからと言われ。

想う。
想い続ける。
あの日の夕暮れ色。
あの夏の草原の匂い。
あの日はじめて聞いた娘の声。

言葉にはならない。
言葉にはできない。

想う。
想い続ける。
言葉にする必要も感じないほどに。

 

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