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Archive for 2014年3月

原発問題とはエネルギー問題では無い。
ここを誤ると、いま世界を席巻する分断と支配の構図はさらに飛躍的に加速する。

しかし残念ながら、いま私たちは、原発問題とはエネルギー問題であると誤って捉えてしまっている気がしてならない…。

子供たちが生き生きと育つために、エネルギー問題はどれだけ重要なのだろうか。
働く気になれないとか、引きこもりとか、いじめとか暴力とか、増え続ける難病、精神疾患…
こうした問題はネルギー問題と、どのように、どれだけ関係しているのだろうか。
エネルギー問題の解決が、そうした深刻な問題の解決へと結びつくのだろうか。
私たちが選択した原子力エネルギーがもたらしてしまった問題とは、エネルギー問題なのだろうか…。

原発問題の本質は、「差別」と「公害」ではないのか。
原子力発電から脱するとは、原発問題の本質に対して取り組むことではないのか。

私たちが、原発問題とはエネルギー問題であると誤って捉えてしまうことによって、社会を覆い尽くそうとする気配が育つ。
ファシズムとは上から降りてくるものでは無く、こちら側がそれを招き入れることによってつくられるこの世の気配…
それは、分断と支配。

いま私たちが原発問題に於いて取り組むべきは、「放射能被曝」と「廃棄物」。
それは、「差別」と「公害」という、私たちがつくってた社会が抱える問題の本質を象徴するものであることをけっして忘れてはならないと私は思う。

 

 

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自分は正しい…という考え方は好きじゃない。
自分の考えを持つことはとても重要だとは思うけれど、それが正しいかどうかは誰にもわからない。
日々、正解か不正解かの判断を迫られるような社会を生き続けることによって、この世のすべては繋がりあいながら、関係性の網の目の上を生きている…という感覚は薄れてゆく。
 
脱原発は正解なのか…。
少なくとも私は、原子力とは核エネルギーであると認識している。
先の世界大戦で核エネルギーを用いた爆弾が広島と長崎に投下され、その爆弾により、あの戦争は終わったとされてはいるものの、あの日、あの時、点けてしまった核の炎は現代に至るまで、世界を分断し、支配し続けていることだけを考えても、それと同じ核エネルギーを用いた発電には断固反対する。
今後、科学技術が進展し、あるいは驚くべき発見によって、放射能をすべて除去できるようになったとしても、二度と再び核エネルギーによる発電はしてはならない…人類は永久にこれを放棄すべきだと考えている。

 

しかし、なによりも、いま私たちは、エネルギーとは「力」であることを理解しなければならないと思う。「力」とは何であるのかの深い議論と認識が無ければ、必ずやまた、それがどんなエネルギーであれ、分断と支配をもたらす「力」になってしまう。
私たちはいま、「力」を使いこなすことができていると言えるだろうか…。
 
あまりに急速に進展する「自然エネルギー」推進の動きに対して、極めて大きな疑問を抱かずにはいられない。
自然エネルギーによる発電は、けっして脱原発をもたらさない。
いや、むしろ原発が生み出してしまった様々な問題の解決を遅らせ邪魔をする。
そう聞いてそんなはずは無いと思うのであれば、「力」とは何であるのか…なぜこの社会を分断する貧困という問題が生じたままであるのかを考えてみてほしい。
 
現在、世界人口は推定70億人。
そのうちの約半数…およそ30億人以上の人々は、生きるために必要な最低限の燃料エネルギーを、バイオマス燃料…木や枝や葉、大鋸屑、紙屑、家畜の糞や食料残さ…などを燃やしながら生きていると言われている。
既にアフリカ諸国では、家庭用エネルギー(調理に必要なエネルギー)に占める木質燃料の割合が9割を超えているにも関わらず、森林そのものが急速に減少し続けている影響もあり、木質燃料は絶えず不足し続けている。
 
国土の68%の森林を抱え、唯一と言ってもいいほどの自給可能な資源である森林資源には手を付けぬまま、国内需要の約8割の木材を、中国、マレーシア、カナダ、インドネシア…から輸入する、世界有数の森林大国、世界有数の木材輸入大国。
この国に暮らす私たちは、核エネルギーを燃やすだけでは飽き足らず、バイオマス燃料を燃やしながら生きるしかない人々が掘りだしたレアメタルを原料にして、太陽光を電気に変え、生きようとしている。

 

「力」とはなんであるのか。
分断と支配は何によってもたらされるのか…。
まだ遅くはない。
惑星の未来を想像する者たちと一緒に考えてみたいと思う。

 

「呪文」
https://mazekoze.wordpress.com/2013/11/20/「呪文」/
「元素」
https://mazekoze.wordpress.com/2014/03/11/「元素」/
「money」
https://mazekoze.wordpress.com/2014/01/13/money/

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暮らしを営む地域の自然と、そこに生きる人との間にある相互の関わりを再度見つめ直しながら、土地の特性や自然の持続性を損なわないような暮らし方をつくろうとする考え方を、生態(生命)地域主義[bioregionalism]と呼んでいる。

もう随分と前のこと…。
生態地域主義[bioregionalism] を知ったのは、アメリカの詩人 GarySnyderの、Turtle Island という詩集を手にしたことがきっかけだった。以来、 GarySnyderは、実に多くの気付きを私に与え続けてくれている。
その意味からすれば、自らを「生態地域主義者(bioregionalist)」だと語る、GarySnyderと同様、私もまた bioregionalist なのかもしれない。
Turtle Islandは、対訳「亀の島(Turtle Island)」として、G・スナイダーの親友であった詩人、故 ナナオ サカキ が翻訳している。

生態地域(bioregion)は、自治体や市町村など、行政上の区割りとは異なる、地理的、生態系的にみた地域。多くの生命地域は河川と、その支流が流れ込む流域を中心として広がり、そこには古くから、固有の文化が育まれ続けてきた。
それは、人間を中心に、その周辺も含めた地域の生存可能な条件を示す意味合いが強い「環境」とは似て非なるもの…。
人間だけでなく、生きとし生けるものすべてが、山や川、木や草というような自然も含めた、この世の全てが関係しあうことによって生きる暮らし という意味合いからすれば、日本に古くからある「風土」という感覚により近い。
年間をつうじて温暖な土地であったり、寒暖の差が大きな土地であったり、山間であったり、平地であったり…風土の違いはあれど、人はそこに風土を感じることができていたからこそ、生き続けてこれたはずだ。
そうした場所に文化は築かれる。
しかしいま、私たちは、風土に根ざした暮らしから遠ざかってしまった…
「生態地域」や「風土」という感覚はいま、急速に失われつつある気がする。

山村や僻地を中心に広がり続ける過疎高齢化、そうした状況に伴う山や森の荒廃のとは何であるのかを言い表すことは難しいけれど、私はその背景に横たわる最大の問題は、「風土感覚の喪失」なのではないかと思っている。
過疎も高齢化も、森や山の荒廃した状況も、それらはみな、環境問題を語っているにすぎない。問題の本質はそこに無いと私は思う。

…もちろん、私たちにとって環境は重要。
環境が整っていなければ、私たちはこの地球上に生きることすら難しい。
…でもしかし、
人間は環境だけで生きられるわけでは無い。
私たちは、温度や湿度が適正で、水や食料があれば生きられるというほど単純で無いのだ。
福島第一原発事故による環境の悪化は人類にとって極めて深刻な状況を招いてしまったことは事実ではあれ、そうした環境問題は、問題の表層に過ぎない。
私たちから生きる力を奪っているのは、環境の悪化では無く、大切な風土感覚と引き換えにつくってしまった原発によって、生命が脅かされているから…。
未だ解決の目処すら立たない深刻な状況であるにも関わらず、経済成長だの、国際競争力だのと言って現実を誤魔化し、事実を歪曲させてしまえるのは、風土感覚の壊滅的な喪失ゆえか…。

生態地域であれ、風土であれ、それはいずれも、自分と自分のまわりとの間に築かれる相互の関係性に連なるもの。
そうした関係性は“目には見えない何か”を自らが感じることによってのみ自覚できるものだ。
だから、生態地域とはどこなのか…とか、風土とは何なのか…と問われても、それに答え、それを伝えることはとても難しい。
だからこそ、暮らしを営む地域特有の自然環境を知ろうとする歩みには大きな可能性があると思う。
いまこそ私たちはその道を歩み始めなければならない時を生きている。

G・スナイダーは、地域の歴史や祖先の知恵に敬意を払いながら長期にわたる持続可能性を考えていくために、場所の感覚[sense of place]が欠かせないと言う。
そのためにはまた、地域の暮らしと自然環境との関わりについて自覚し、学び、歴史の中で分断されてしまっている、人と自然、人と人との関わりを再びつなぎ合わせながら住むという意味での、再定住[reinhabitation]の重要さを語る。
そうして育まれる感覚が、『風土感覚』であると私は思う。

私たちが生きてゆくためには、エネルギーの問題は大切だ。
けれど、エネルギー問題とて所詮、私たちにとっての「環境問題」に過ぎないのではないかと私は思う。
それより先に、私たちはこの流域で、どのように自然と関わりあいながら暮らしてきたのかを知らねばならないと思う。
いま目の前に深刻なエネルギー問題があるとしても、その問題は、風土感覚を持って、考え、捉えなければ、必ずやまた持続可能性を阻害する結果をもたらす気がしてならない…。
降り注ぐ太陽の熱や光は、私たちに、そして全ての自然に対して、等しく恵みを与え続けてきた…けっして他者を傷つけることは無く。
私たちはいま、その知恵を地域の歴史や祖先の知恵に敬意を払いながら学ぶ途上にある。
私たちには、山の匂いとは何であるのか…その匂いはどこからするのかすら解ってはいないのだ。

答えは、この流域が育む風土のそこかしこに隠されている…
だからまず、子供達と、大人たちと、もっともっと山を歩いてみたいと思う。

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レアメタルは、地球上に存在する希少な非鉄金属全般を指す総称。
構造材料へ添加して強度を増したり錆びにくくしたり、発光ダイオードや電池・永久磁石などの電子・磁石材料や光触媒、ニューガラスなどの機能性向上材とする等々、その用途は多岐に渡り、私たちが生きる現代社会を維持させるために極めて重要な元素と言える。
レアメタルのうち、スカンジウム、イットリウム、そして元素記号表のランタンからルテチウムまでの連続する17元素は、希土類元素または「レアアース」と呼ばれ、「ネオジム」や「ジスプロシウム」は、強力な永久磁石をつくるために、固体レーザーやカラーテレビの蛍光体には、「イットリウム」が使われている。
こうしたレアアースの世界需要の約半分を日本が占めているとも言われているが、その大部分は現在、世界産出量の97%以上を占める中国からの輸入に頼っているのだそうだ。

エネルギーや資源が需要の増大に対して供給不足に陥り、社会不安を招く恐れのある状況を「資源リスク」と呼ぶそうだが、資源リスクを招く大きな要因は、全世界レベルでの経済の急速な拡大傾向。そして、その背景には、グリーンニューディール政策など…地球温暖化、世界金融危機、石油資源枯渇に対する一連の政策提言に連なる、エコ・イノベーション新技術への過度な期待感があるとも言えそうだ。

新エネルギー導入促進に伴うレアメタル需要(2009.11 金属資源レポート)
http://mric.jogmec.go.jp/public/kogyojoho/2009-11/MRv39n4-14.pdf

私たちが生きる社会が持続可能であることをイメージすることは欠かせない。
しかし、生物と環境の間の相互作用=生物と環境の相互持続可能性…である、生態学用語である「エコロジー(Ecology)」と、既存の市場や産業とは異なる“新しい市場と新しい産業を創出する”「イノベーション(Innovation)」という経済用語を一つの言葉として結合させるためには、極めて慎重な検討が必要であったはずだと私は思う…。
しかし、そもそも、世界金融危機問題や石油資源枯渇問題を招いたのは、経済至上主義の行き詰まり…ようするに世界経済という大食漢の餌不足であり、その空腹を満たすために、未だ食料が残っている生体地域に目を向けたということ…新しい市場や新しい産業の創出の場を広げようとするという思考性は、餌の無くなった経済がまだ餌の残っている生体地域を食い荒らすということだ。
このままで行けば、遅かれ早かれ、やがてまた同じ行き詰まりに到達するのは明らかで、やがては、人類は壊滅するのも致し方の無いことなのかもしれない。
そうした中、日本のエコ・イノベーションがいま最も注目するのが、再生可能エネルギーというエコロジー…そこにイノベーションを見出そうとしている。

とは言え、既に私たちの暮らしにとっての必需品と化した、インターネットや携帯電話…が単純に世界を悪化させているとは言えない…インターネットや携帯電話によって、世界中の数えきれない生命が救われ続けている。
でもしかし、レアメタルやレアアースの産出国には、劣悪な労働を強いられる人々がいる…利権をめぐり、紛争が起き、女性や、子どもへの虐待が続く。
大地は汚染され、人が住めない土地が広がり続けている。
…そうしたいま、そうした人々と同じ地球上に私たちが生きているのが事実なのだ。
私たちが携帯電話を手に友達と話せるのは、目には見えないそうしたいまがあるから…。

そして残念ながら…
3・11、そして福島第一原発事故は、エコ・イノベーションを大きく加速させる力となってしまっている。
私たちは、希少な金属に頼りすぎた、極めて危うい社会に生きている。

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もうだいぶ前のこと…。本だったか、それとも誰かから聞いたのかは忘れてしまったけれど、「フィンランド人には1日最低1時間、一人きりになれる時間が必要だ」と聞いたことがある。
それが本当かどうかは定かでは無いものの、いまという時代にあって、一人きりになれる時間はあるようでいて実は無いに等しく、自らが意識しなければつくることはとても難しい。

長いこと自分でつくることを意識して生きてきた私ではあるけれど、いま私たちが、最もつくれないもの…つくり方を忘れてしまったのは、「一人きりになれる時間」のつくり方なのではないかと思う。

私と妻の間に娘が生まれ、娘をどう育てるかという話もしたこともあった…けれど所詮、出たとこ勝負のいい加減さに関しては似た者どうしの私たち…何を話したのか、殆ど忘れてしまった。
ただ、そんな私たちが唯一忘れないようにしていたことがあるとすれば、子供としてではなく一人の人として接しようと思ってきたことぐらいか。
自分たちのタイプじゃない…と、いわゆる赤ちゃん言葉は使わなかった…使えなかったし、子供だからという理由でやり過ごすことだけはしないようにと思ってきた。子供に話してもわからない…と思われるような話しもたくさんしてきた。
娘がどれだけ理解できていたのかはわからないけれど、そもそも理解なんてたいした問題じゃない…。
それよりなにより大切なことは、「私に向かって話してくれているかどうか…」という実感なのではないかと私は思う。

そんな私たち家族がお互いに大切にしてきた時間…それが一人きりになれる時間。
我が家ではそんな時間を「それぞれタイム」と呼んでいるのだが、それは何時から何時までというように決まりがあるわけでなく、なんとなく誰かから始める…すると、「それぞれタイムに入ったんだな…そんじゃぁ私も」…という感じで。

この春、6年生になる娘のここ一年の成長ぶりは驚くばかりだ。
それはまるで脱皮を繰り返しながら成長する蚕のよう…身長体重の変化もさることながら、その言動にしろ思考性はもはや子供とは言えない。
このところ、そんな娘の姿に幼い頃の自分が重なって見えることが多くなった気がするのだが、弟はいるものの、弟とは歳が離れているせいか、兄弟がいるという感覚が薄い私と、一人っ子の娘の間にはもしかすると、「一人の時間のつくり方」の共通性があるのかもしれないと思ったりもする。
とは言え、一人っ子だからということでは無い。
それは、「想像のしかた」の共通性と言ったほうが感覚的には正しいのかもしれない…。
私たちが、目や耳をはじめ、五感で感じることができる この世の時間軸の中に、自分の時間軸を見出す力…私はそれが想像力であり、その力こそがいまを未来へと方向付けられる唯一の力なのではないかと思っている。
ようするに、私たちが自分の時間軸を見出すことができなければ、誰かにつくられた時間軸の中で生きるしか無いということ…そこには自分が消失してしまう危険性があるということだ。
「一人きりの時間をつくる」とは、この世の多様性の一つが自分であることを知ることだと思う。

私が森や山に惹かれ、足を運び続けるのは、そこが実に多様な「一人きりの時間」によってつくられていることを感じることができるから。
私がその場の多様性を破壊せず、その場に流れる時間軸をより持続させうる存在であれるのかどうか。
私の役割は何なのか…。

植物や樹木が私たちの目には見えない地中で根を伸ばす。
雪の下で、樹上でも…。
私もこの時間をつくる一人になりたいと思う。

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