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Archive for 2014年10月

自ら気付くことは、この世を生きるための大切な力。
…というよりむしろ、人間がこの世を生きるためにもっとも重要な力とは、この力なのではないかと思う。
とはいえ、この力とはいったい何であるのかを言葉で説明することはとても難しい。
例えばそれは、ずっと考え続けていた問題の解決方法が閃いたあの瞬間…に感じるあの感覚を呼び起こす力。
「自ら気付く力」によって、自分の中で何らかの変化が起こり、いままで何の繋がりも感じていなかった、あるいは、繋がりが途切れていたモノやコトやヒトとの間が結ばれ、繋がり、新たな関係性が築かれる。
こうした途切れていたものが新たに結ばれてゆく際に生じる感覚こそが、あらゆる創造にとって欠かすことのできない源であり、そういった意味からすれば、自ら気付く力とは、まさに創造力であると言っても良いのではないかと私は思う。

 

私に気付きのきっかけを与えてくれた人や物や出来事は多々あるけれど、その中の一人、明治18年、長野県更級郡(現在の長野市信更町)に生まれ、尋常小学校、旧制中学校の教師であり地理学者であった三沢 勝衛が著した論文や研究は、ここ最近の私にたくさんの気付きをもたらしてくれている。
三澤勝衛は、『新地理教育論』(三沢勝衛著作集 第二巻、31‐32p)でこう書いている。

「教育というものは教えるのではなく学ばせるのである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではなく、手を引いて川を渡らせるのである。既成のものを注ぎ込むのではない、構成させるのである。否、創造させるのである。ただ他人の描いた絵を観照させるのではない。自分自身で描かせるのである。理解の真底には体得がなければならないのである。それがその人格そのものの中に完全に溶け込んで、人格化されていくところのものでなければならないのである。したがって、地理学においても地理的考察力の訓練を重視するのである。すなわち地理的知見の開発だけではない。さらにその性格までも陶冶し、自律的に行動し得るようにまで指導する、過分に感情および意志に対してまでも深い交渉を持ち掛けて行くべきものである。要は魂と魂との接触でなくてはならないのである。否、共鳴でなくてはならないのである」

 

まるで、昔観た学園テレビドラマに登場するような熱血教師のような…その論文は暑苦しいほどSoulful
でも…その言葉に嘘を感じないのは、三澤勝衛の地理学が実践・実理の地理学であり机上の研究ではなかったからか。野山を歩き回り、地域の暮らしと自然との関係を深く見つめることをつうじて得た、地域で生き続けるための地理学と教育とを常に切り離すことがなかったからに違いない。

「地球の表面という概念の中には、地理学の方面からさらにそこにいろいろの内容を含ませて考えなくてはならない。すなわちそれは、その表面というのは単に それが岩圏と水圏とでできているいわゆる大地の表面だけではなく、実はさらにその上を厚く掩っている大気圏の底面をも考え、しかも正しくはこの両者の接触面 を中心としてそれを地理学上での地球の表面と考えたい。」
「これら両者の接触からなるその接触面は、等しく地球のとはいうもののさらにいっそう多種多様のものであるべきことも想像に難くはない。しかしその多種多様であるそれぞれの接触面も、それが単なる接触面というだけではなく、その広狭のいずれを問わず必ずそこに一つの中心を持ち、それが統一的完全体としての存在であることを注意しなくてはならない」 『郷土地理の観方』(三沢勝衛著作集 第一巻、7p)

 

大自然である大地の表面と大気の底面との接触面における一大化合体を地理学上の地球の表面として捉えていた三澤勝衛は、この接触面において土壌・植物・動物・人間が互いに大地・大気と関係しあいながら、一体となって表出するもの…「一つの中心を持つ統一的完全体としての存在」 それを『風土』であるとした。
例えばそこが寒い土地であたり雪が多い土地であったり、水が冷たかったり、風が強かったり、湿度が低かったり…、それら人間にとって一見望ましくない自然に対しても、それを憎んだり、征服したりしようとするのではなく、風土に従って、その力を活用することでプラスの力が生まれる…風土を活用することこそが人類の叡智であるとした三澤勝衛の地理学研究とその教育は、効率と平均化一辺倒の現代に生きる私たちに多くの気付きを与えてくれるのではないだろうか。
…少なくとも、歩いてもゆける程近くに、熊や鹿が暮らす山を背にした街に暮らす私の魂は、三澤勝衛の地理学に大きく共鳴し、揺さぶられている。
途切れていたものが繋がり、結ばれてゆく感覚がそこにある。
この感覚から始まる新しい創造が何であるのか…いまはまだぼんやりしてはいるけれど、この感覚があるということは、きっとこれから何かが始まるのだと思える。
いまはそれだけでとても嬉しい。

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1808年からのスペイン独立戦争でナポレオン軍に抗して蜂起したスペイン軍やスペイン人民衆の採った作戦を、「小さな戦争」を意味するguerrilla(ゲリーリャ)と呼んだのが、ゲリラの語源だそうだ。
ゲリラは、少人数で神出鬼没に活動したり、奇襲などの撹乱工作を行うといった戦術を用いる兵またはその組織のことを指す用語だが、近年、テロリズム(terrorism)という用語が盛んに用いられるようになるにつれ、ゲリラは例えばゲリラ豪雨など、「突発的、神出鬼没」な様子を形容する用語として用いられることのほうが多くなっている。
だからと言ってゲリラを擁護したり賛美するつもりはないけれど、でもしかし、社会的マイノリティーであるがゆえの選択が結果としてゲリラ戦術やゲリラ組織へと至ることが多いのに対し、テロリズムは、恐怖心を呼び起こし、周知されることで目的を達成しようとする行為…物理的被害よりも心理的衝撃を重視する暴力であり、マイノリティー、マジョリティーの区別の無く行われることからすれば、この二つは本質的にまったく異なるものだ。
もちろんゲリラと言っても様々で、戦闘や暴力と無縁とは言えないが、少なくともゲリラ=テロではなく、仮に一方がテロだと決め付けたとしても、それがほんとうにテロであるかどうかの判断は極めて難しい。いずれにせよ、ゲリラとテロリズムの関係に、世界が抱えた歪みと亀裂が格段と深まってしまったことが現れているということなのかもしれない。


サパティスタ民族解放軍(EZLN)は、1994年に締結された北米自由貿易協定(NAFTA)が、貧しい農民に対する死刑宣告に等しい…として、メキシコで最も貧しいとされる、南部チアパス州ラカンドンのインディオたちが武装蜂起したことに始まるゲリラ組織。当初、メキシコ政府はこの武装蜂起に武力鎮圧で応じ、チアパス州のインディオ居住区を中心に空爆を行なった。これによって多数の死者をだしたものの、サパティスタ側は対話路線に転換。先住民に対する差別撤廃交渉、農地改革修正交渉など、農民の生活向上と民主化の推進を要求するために、政府との交渉を何度も繰り返しながら、世界的な新自由主義グローバリゼーションがもたらす構造的な搾取と差別に対して闘うことを目的とした運動を展開し、その支持者を増やし続けている。


私が暮らす国、日本にも搾取と差別による深刻な歪みがあちこちに生じている。
にも関わらず、EZLNのようなゲリラ組織がない、表出しないのは、国の統治システムの完成度の違いと言うべきか。
あらゆる政策改革や制度改革は、現行の統治システムの枠内で行われていることからすれば、日本の統治システムの完成度は極めて高いと言えるだろう。それが「良い」かどうかは別の問題ではあるのだが…。
しかし、かつて1960年代から70年初頭にかけて、日本の統治システムが大きく揺らぐ時代があった。
日米安全保障条約の強行採決に反発した国会議員や労働者、学生、市民、および批准そのものに反対する左翼勢力によって、反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争は、当時の統治システムの枠が大きく揺らした。
内閣総辞職まで追い込んだ60年安保闘争は、70年安保闘争になるとやがて、闘争に参加していた左翼活動団体の分裂や、暴力的な闘争、抗争へと激化し、連合赤軍によるあさま山荘事件(1972)、それに伴って発覚した、山岳ベース事件によって、急速に大衆の支持を失なってゆく。
さらにその後、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件や日本赤軍による事件が頻発し、新左翼や過激派と呼ばれる団体による凶悪犯罪に対する反省から、「いかなる理由があろうとも、あらゆる政策改革や制度改革は、法律のもとに成されなければならない」という大衆意識が確立したことによって現在の統治システムへと至ったとも言える。


だがしかし、社会が民主的、平和的であるために法律が大切であるとは言え、あれから随分と時を経たいま、私たちの意識の中にあらねばならないはずの、『法律とは何であるのか』…が、あまりにも希薄になってしまった。
既に三権分立は名ばかりと言わざるを得ないこの国の政治システムを招いている要因は、他ならぬ、この国の主権を担っているはずの私たち国民の政治離れにあることを否定できない。
とはいえ、一部の都合が優先され、多数決の原則によって推し進め、決められる法律が、必ずしも私たちの未来にとって「良い」とは限らない。
マイノリティーがマジョリティーによって押さえ込まれ、法によって半ば強引に国民を従わせるような政治のあり方は考え直さねばならないと思う。


テロリズムという用語を日常であたりまえのように聞くようになったいま、私たち日本人は先の戦争の敗北、60年・70年安保闘争の結末、その後の過激犯罪 を思い出さずにはいられない。
テロリズムが強調されればされるほどに、私たちの心の奥底にある恐怖心が呼び起こされ、テロリストとおぼしき人々、組織を警戒、嫌悪する気持ちが呼び起こされる…。
現行の統治システムが広く世間に浸透しているいま、多くの日本人にとって、反政府や反米といった用語は、左翼や過激派でありテロリズムという暴力へと簡単に繋がってゆく…。
EZLNのようなゲリラ組織がメキシコ政府をはじめ、世界的な新自由主義グローバリゼーションの流れにとって無視できなくなっているいま。
私たちは、テロリズムとは何であるのか…暴力とは何であるのかを真剣に考え直さねばならない時代を生きているのだ。

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ジャン・デュビュッフェは、アンフォルメル(1940年代半ばから1950年代にかけてフランスを中心にヨーロッパ各地で展開した美術の動向)の先駆的作家とされているものの、デュビュッフェ自身は、従来の西洋美術の洗練された技法や様式、巨匠の名人芸といった伝統的価値観や、西洋文明そのものを痛烈に批判するいっぽう、子供や、先住民、精神障害者などが描いた絵を高く評価しart brut(アール・ブリュット)という概念を提唱したことでも知られている。
デュビュッフェがフランスに生まれ育ったことからすれば、art brut という概念もまた西洋的価値観、西洋的概念と無縁であるとは言えないものの、それをartの一分野だとかartの評価基準として捉えてしてしまうと、art brutの本質を見失う。
西洋は西洋であってそれ以上でもそれ以下でもない…。
西洋文明を痛烈に批判してはいても、それは西洋人や西洋そのものを否定していたわけではないはずだ。
「真の創造は、存在することも、あるいは芸術でないかも気にかけない 」というデュビュッフェからのメッセージの本質がかき消されてしまうと思う。

 

フランス語art brutは、英語ではoutsider artに、日本語では「生(き)の芸術」と翻訳され、日本では近年、そうした表現の中でも精神障害者による表現に対する注目が高まっている。
しかし、そうした表現に対する注目が高まるにつれ、精神障害者による表現をartのoutsideとして区別することは、精神障害者に対する差別ではないか…との非難もあり、「エイブル・アート」「ワンダー・アート」「ボーダーレス・アート」などと呼ばれたり、とかく社会とのつながりが途絶えてしまいがちな、様々な障害を持った人たちが社会とのつながりを持つ、保つための手がかりとなるように支援しようとする動きへと変化してきている。

 

デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」 と書かれていたが、デュビュッフェ自身はart brut を知的障害者が描いたものであるとは一切言っていない。
一般的には、art brutやoutsider artを説明する際には、専門的な美術教育を受けていない、作品を社会に向けて展示したり発表することがないまま、独自に作品を制作しつづけている者などの芸術…とされてはいるものの、そもそも、何をして専門とするのか…専門と非専門の区別は実に曖昧であるし、展示や発表を目的としない芸術家や美術家はたくさんいる。
デュビュッフェがart brut という概念を提唱したことに対して、「専門的…」などという単語を持ち出さなければ説明がつかないほどに、art brutとして示したものは、「真の創造性」に満ち溢れていたということなのではないか。
おそらくは、デュビュッフェにそう指摘されたことで、「それは図星だ…」、「ああ…まったく、なんということを言い出すのだ…」と思った専門家はたくさんいたと思う。でもしかし、それをそのまま認めるわけにはいかない事情が当時の世間に満ちていたであろうことも容易に想像することができる。
世間の事情というやつが、デュビュッフェの生きた時代にはたまたまartという世間に露出したということ…私たちが生きる「いまここ」では、どこに世間の事情が露出しているのだろうか…。

 

気が付けば私は、日本という国に生まれ育ってしまっていた。
デュビュッフェが西洋という場所に生まれ育ったことと同様、私にしてみてもこの事実は否定も訂正もできはしない。
たまたま伸ばした手の先に美術が、Artが触れ、それに惹かれていった…それも事実。
のめりこみ易い性格の私は、少しぶっ飛ばしすぎて疲れてしまった頃だったか、art brutの作品に目がとまった。
その作品の制作者が精神障害者だったかどうかは覚えていない…けれどその頃から美術館と画廊は私から遠退いていった気がする。
私が岩登りを始めたのはその頃からだ。

 

どうして私は美術やArtのことばかり考えてしまうのか…
これも「私利私欲」というものか。
できることなら子供に戻りたい。原始時代に行ってみたい。
左手で絵を描いてみても、子供のような絵が描けるわけではないと解ってはいても、そうせずにはいられない…近づけば近づくほどに遠ざかる。

 

art brutやoutsider artと呼ばれる作品に模倣はほとんどない…あるいは全くない。洗練された技法や様式にとらわれることもなく、誰かのためでもなく、おそらく自分のためでもない…。心の奥底から沸き起こる創造がそこにある。
私たちはart brutの作品に、制作のあらゆる段階においても、彼ら自らの衝動からのみ起こった芸術活動を目の当たりにするのだ。
私たち観賞者が、そう感じながら見ることは間違いでは無い。自分の目で見ようとする人であれば、彼らが創り出す作品に力強さを感じずにはいられないはずだ。
けれど、だからと言ってart brutやoutsider artこそが本物のartだとか、優れているとは思わない。
大切なことは、作品性や作家性ではなく、その作品を目のあたりにした私たちの側にある。
私たちの誰も皆、そうしたart brutやoutsider artの中に「美」の本質を見出すことができるということこそが大切なのだと私は思う。
彼らがつくりだす作品はきっと、私たちにそれを伝える役割を担っているのだと思う。
それこそが、デュビュッフェが見出そうとしたart brutなのではないかと。

 

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