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Archive for the ‘祈り’ Category

雲の切れ間から見える岩手山の稜線
雨に濡れた森の匂いの中に、赤松特有の香りが混じる。
 
思えばもう長いこと、こんなことばかりしている。
「こんなこと」…が、いまの自分の仕事のようなものかもしれないけれど、
あんなこともそんなことも自分にとってはどれもが「こんなこと」。
どうして「こんなこと」ばかりしているのかを伝えようとすればするほどに
「こんなこと」は増え続ける。
 
木を伐る
板を挽く
柱を組む
土を練る
土をぬる
 
土に還す
 
木が生える
 
こんなことをずっと見ていたい。

 
 場所:ピネムの森  撮影:yoshiyoshi

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フランス・パリで起こった、週刊誌「シャルリー・エブド」襲撃事件。オランド仏大統領はこの事件を「テロ」と断定。仏議会は13日、フランスがイラクで実施しているイスラム過激派組織「イスラム国」に対する空爆作戦攻撃継続承認を議決し、仏海軍の主力空母「シャルル・ドゴール」を参加させる意向が表明された。

 

 

「火の灯り」

 

湿った薪が放り込まれる。
薪は燻り煙が充満する。
表現の自由の名の下、反テロリズムが叫ばれる。
預言者の名の下に、我々は死ぬ用意ができていると叫ばれる。
息苦しさが増し、目から涙が溢れ出る。

 

私が欲しいのは冷えた体を暖めるだけの火。
水を沸かすだけの火。
乾いた薪。
薪が燃える音。
湯が沸く音。
雪が降り積もる音。

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在ネパール日本大使館は5月31日、ネパール・ヒマラヤ山系 世界第7位の高峰ダウラギリ(8167メートル)で23日に死亡した日本人女性の身元が、東京都練馬区の河野千鶴子さん(66)と確認されたことを明らかにした。
助産師で看護師でもある河野さんは、主婦業と助産師という仕事をしつつ50歳から本格的な登山に挑戦し始め、これまでに7大陸最高峰および8000メートル峰5座に登頂成功した登山家として知られている。

今回のダウラギリ登山はシェルパ2名との登山であったそうだが、頂上から120メートルの時点で河野さんが体調不良を訴えて引き返していた途中、7700メートル付近で酸素吸入を行ったものの力つき息を引き取ったという。残るシェルパ2名は河野さんの遺体を残して下山を続けたが途中1名が滑落、かろうじて生き残ったシェルパ1人がベースキャンプに辿り着き遭難の様子を伝えたとのことだ。
この時期になると一帯は雪崩などの危険性が高くなり、遺体搬送作業だけでも死を賭する活動になるそうで、おそらく遺体は7700メートル地点から降ろせないであろうとのこと。そうした場合の遺体はシュラフとテントで覆って氷河のクレバスの奥深くに落されるそうだ。
つい先日の、三浦雄一郎氏の80歳という世界最高齢でのエレベスト登頂成功とほぼ同時期に行われたヒマラヤの高峰登頂の試みだったにもかかわらず、一方は輝かしい成功であったのに対し、他方は悲劇に終るという極めて対照的な出来事でもあった。

山国である信州に生れ、目の前に山と川がある場所で育ち、野山を駈けまわる私にむかって母は、「このあたりの山なら良いけれど、高い山に登ってはだめ…」と、ことあるごとに言い聞かせていたことを思い出す。
それは、人一倍好奇心と冒険心が豊富で運動神経もまずまずのわが子を見ながら、このままだといつかこの子は高い山にも登りかねない…高山の登山には遭難が付きものだ…という我が子を案ずる親の想いがあったからだと思う…。くわえて、もしも遭難した時には高額な捜索費用が必要になることも理由の何処かにあったとは思うが。

そんな私の子供時代…三浦雄一郎は私にとってのヒーローの一人だった。
世界最高峰エベレストをスキーで滑り降りるという快挙に幼い私の胸は高鳴り、いつかは自分も三浦雄一郎のような冒険家になりたいと、地図帳を眺めながら、未だ誰も挑戦していない冒険の地に想いを馳せていた。

あれから数十年。
かつて自分が子ども時代に感じていたような、冒険に心踊る…という機会はめっきり減ってしまった。それは自分の年齢のせいか、それとも世の中が変化したからか…。
それでもたまに、私の中にある冒険心に揺さぶりをかける何かが、山を登ろうとする人々の姿の中にあるような気がしてならない。
それは必ずしも世界有数の高峰であるとか高難所への挑戦であるとか、順位を競うといった山登りであるとは限らない…。

「山が好きだから登る…いまよりももっと山が好きなるために…」
そんな姿は、極めて純粋無垢で、社会の現実からは遠く逸脱しているようにも見える…。
大金を使ってまで山になんか登って、成功して名を馳せるならともかく、死んでしまったら元も子もない…と言われるかもしれない…。

でもそれはけっして社会から逸脱しているわけではない と私は思う。
純粋無垢ではあるけれど、その挑戦は極めて現実的で、命に対して真正面で向き合おうとする姿そのものだ 。
けっして自分勝手な行動でも無い。

私たち全てにとって共通する命の輝きを感じさせてくれる姿を前にした時、私たちの命はそれに反応する…自分勝手な挑戦どころか、この世の中でそうやって命を輝かせることのできる人は少ない。

生きるとは何かを私に感じさせてくれた河野千鶴子さんに心からの感謝。
謹んでご冥福をお祈りしたい。

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ふと、生命科学者の柳澤桂子さんを思い出すことがある。
今日も仕事場で鉄にバーナーの炎をあて真っ赤になってゆく様を見ていたその真っ最中に思い出した。
直接お目にかかったことは無い。
私はあくまでもその文章をとおしてしか柳澤桂子さんを知らないけれど、「生」と「死」はおなじ価値をもつこと…を私に気付かせてくれた私にとってとても大切な方。
激しい痛みと全身のしびれを伴う原因不明の病に苦しみながらも30年以上にわたり病床から執筆され続けている。

自分の中の免疫の異常に気付いて2年になる。
痛みは心身のバランスを崩し思考を停止させる。
誰を責めることもできない、我が身にふりかかった現象をただただ受け入れるしかない状態の中で、我が身の「生」では無い「生」を考えることはとても難しいことであることを知った。
でもその時、私は心のどこかでそれを望んでいたことだとも思った…。
免疫の異常に気付いた同じ年の暮れ…眼底の網膜上の血管が出血し、右目の視力は極端に低下した。
そのことに恐怖を感じていない自分を不思議だとも思う。
自分を生かしている生命力を感じる。

散りどきが近づくと、葉のつけ根に離層と呼ばれる組織ができ、葉が散る準備は整えられる。そして、美しく色づいた葉は音もなく散っていく。
もし、紅葉の一葉ひと葉が散る苦しみに声を立て、嘆き悲しんだらどうであろうか。となりの葉が散った寂しさと悲しみの涙にむせんだらどうであろうか。
紅葉した山は葉のうめきで全山揺るがされるであろう。紅葉は音もなく散ってほしいと思う。
同様に自然のなかの一景として眺めたとき、人間の死もまた静かであってほしいと願う。美しく色づいた葉が秋の日のなかにひらひらと舞っていく。葉の落ちたあとの樹の梢には、冬芽の準備がはじめられる。死はそれほどにも静かなささやかなできごとである。

「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」
柳澤桂子 著 草思社
「おわりに」 より 抜粋

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農山漁村文化協会(農文協)の編集者の方から、半月ほど前に信濃毎日新聞で記事として取り上げられたウッドガスストーブ(TLUD Stoves)に関する取材がしたいと連絡があり、その取材を引き受けた。
何という題名になるのかは忘れてしまったけれど、近々バイオマスストーブを特集した本を出版するとのこと…本や新聞に写った自分の姿を見るにつけ、う~ん…とがっかりすることは多い。取材を受けるまでは良いけれど完成した本はあまり見たくないのが本音。

まぁ…それはそれとして、ここ数年は自分が理解しているロケットストーブやTLUDについてを人に伝えるためのワークショップを開催したり、時には依頼を受けて制作 設置することもあるのだけれど、「なぜそうするのか…」を伝えることはとても難しいことだ…と思い続けたまま いまに至っている。

ロケットストーブという仕組みは、ここ数年の間に猛烈な勢いで知られるようになった。
「ロケットストーブ」と日本語で検索してもヒット0だった数年前…この名称がこれほどまでに知られるようになるなんてことはまったく想像できなかったけれど、自分がRocketStovesに惹かれたのは…と考えてみると、果たしてロケットストーブはRocketStovesなのだろうか…と思うのだ。

3.11を経験した私たち…。
いままでと同じではない…と思い始めている人々は多い。
ロケットストーブへの注目は3.11があったからだけではないにしろ、社会の揺れが少なからず影響していることを否定することはできないとは思う。
…とは言え、日本は未だ世界有数の木材輸入大国であり続けているし、日本の山は荒れ続けているのが現実だ。
たかがロケットストーブで問題が解決できるわけがないと言われるかもしれない…。
でも自分は、私たちが抱え込んだまま置き去りにしてきた重大な問題に対する突破口のような何かを感じたからこそ自分でつくってみたいと…いま日本に暮らしている自分だからこそ必要なものだと思った。それがRocketStovesだった。

この世は「生命」に満ち溢れている。
それは姿かたちのない何か…でもその何かは確実にある何かだ。
そして私たちはそれを感じることによってこの世を生きている。
自分だけじゃなく他人を大切に思うことができるのも、それはそこに生命があると感じることができるからだ。

ガスレンジの摘まみを回すだけ…押すだけで火が点くことに驚くことのないこの国に生きながら、毎日何時間もかけて焚き木を探し求め歩き続ける少女のことを想像することは難しい。
いまなお、焚き火で調理せざるを得ない人々が世界の人口の半数、調理することから発生する煙を吸い込むことによって命を落とす人々は、年間に約150万人いることを想像することは難しい。
自分にできることは、少女が使っているというRocketStovesを自分でつくってみること…そしてそれを使ってみること。
そうすることによって見えてくるものがあるとすれば、それは「生命」だと私は思う。

TLUDは、木の中にある燃焼性ガスを取り出し燃焼させることのできるシンプルなStoves…木の中にある燃焼性ガスを燃やすことによって炭素を封じ込めることができる…ようするに『炭』をつくることができる装置でもある。
そうしてつくられた炭を土壌に埋めることによって土壌中の微生物が増え、植物の生育は促進される…。
この燃焼の仕組みを自分でつくりたいという人が増えてほしい。
そしてできることなら、その炎が生きていること…この世に満ち溢れる生命を感じてほしいと思う。

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「ヨキ」

我が家が長野に暮らしてはじめて4度目の冬。
今年はなんだか穏やかな冬が続いていて、まだ2月のはじめ…いま頃が最も寒くなるはずなのに既に春の気配が漂いはじめていて、冬好きの自分としてはなんだか物足りない。

ここに暮らし始めてからことあるごとに思うのは、これほどにも山が近くにあるのに、山の暮らしは随分と遠くにあるということ。
振り向けばすぐそこに山があるこのまちで、人々は町がある方角ばかりを見ようとしている気がする。

山の暮らしをなめちゃいけない。
いま山にいる人達だってほんとうは山から離れたいと思っているんだ。
昔とは違うんだ。
山はあんた達のような街育ちが憧れだけで暮らせるようなところじゃない。

…何度もそう言われた。
そうかもしれない…。
でも、だからこうなったんだ…とも思う。
それが誰かのせいだとは思わない。
山の暮らしを背にして街ばかりを見ていたのは自分なんだし…。

山仕事をする人たちが使う道具のなかに、ヨキ と呼ばれる道具がある。
斧(オノ)のことを山で働く人々はヨキと呼ぶ。
山道具とは言ってもいろいろだけれど、自分にとって身近で大切な山道具がこのヨキ。
自分は、ヨキが無ければ山仕事に行けない…と言うことではないけれど、山と自分を近づける為に必要な道具がこのヨキだと思っている。

ヨキの刃には4本筋、あるいは3本筋が刻まれている。
4本筋は、「地(土)・水・火(陽)・風」の四気(ヨキ)を、3本筋は五穀と酒…山の神への供物である 三気(ミキ)…を意味するそうだ。
四気の「地(土)・水・火(陽)・風」は、木が育つためには欠かすことのできない大切な要素。
かつて、木こりたちは、木を伐る前に、その木に宿っている霊に感謝の祈りを捧げ、ヨキを立てかけ祈ってから木を伐ったそうだ。
木という姿をした生命に支えられて私たちは生きることができている。それをいつも心に刻む道具…それがこの祈りの道具…ヨキなのだと思う。

自分は林業従事者では無い。
ましてや、山に暮らしてもいないし、山仕事をしなければ日々の暮らしが滞る…と言うわけでも無い。
でもそんな自分がいまこうして、ここで生きていられるのは、そこに山があって、その山で暮らす人々がいたからだと思うようになった。
それに気付いたのはもしかすると、その道具が「ヨキ」と呼ばれている…と知った時だったような気がする。

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山に暮らす友達の のぶちゃん がFBに投稿していた文章に心の奥で震えるものを感じた。
こういう感覚は実に久しぶりだ。

私たちが生きるこの地には古くから言霊(ことだま)と呼ばれる、“言葉に宿る霊的な力“ 信じられてきたけれど、それはまた、真に心の底から沸き起こった言葉であれば、距離が離れていようとも、たとえ誰かを介したとしても、真の言葉には、響き続け魂を震わし続けさせる力が宿る…ということなのだと思う。
小説や詩や短歌、エッセイでも日記でも。
微塵も企みの無い言葉…つくられた言葉では無い…
そうした言葉は、やはり降りてくるもの…というのがふさわしい。

facebookというシステムを介したとしても、発せられた言葉にそうした力が宿っているとすればやはり同じだろう。
…けれど、その下の方にあるシェアというボタンを押しても、自分の中の魂がその言葉に同調し響いたことを…その言葉を響かせ続けることができないのではないか…と自分は思ってしまう。

そもそも言葉の響き(ヒビキ)とは、何があっても壊れないような頑強なものでは無い…
言葉が発する響きのエネルギーがいくら強くとも、言葉とはほんらいとても繊細で微細で壊れやすいものだ。
この世にあるものの中でも極めて純粋であるがゆえに…世界中で、霊…あるいは神は純粋で壊れやすいものを好むと信じられてきたように…言葉の繊細さ純粋さには霊が、魂が宿りやすいと信じられてきたのだろう。

それはちょうど、コップの中にストローを差し込みぐるぐると同じ方向に回し続け、そっとストローを抜いた時に残る渦のようなもの…それが響き(ヒビキ)
その渦を、響きを乱さないように…渦が次第に弱くなりやがて水の動きが止まるその瞬間まで大切に響かせ続ける…。

この繊細で壊れやすいものをどうやって次へと渡そうか。
言葉を響かせ続けるにはどうしたらいいのか。
この世にArt があり続けていること、自分がずっとそれに魅了されているのもきっとそれは「響き」を感じるからなんだと思う。

…ということで、のぶちゃん、
文章をそのまま載せさせてもらいますね。
これで響き続けるのかどうかはわからないけど…。

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「チューニング」

『いくら祈ったって世界は平和になんかならないじゃないか』と思う時期もあった。
でもある時、ふっと気がついた。
いのりがあるその時、こころはとても平和じゃないか、
そしてそれを知っているじゃないか、と。

願いとは違う
何か自分を生かしているものに、チューニングを合わせる時
流れてくるエネルギーがある。
光のような、水のような、電気のような、、、
あぁそうだ、この感じ、つながっている何か。
ひと時、平らに澄んだ満ち足りた気持ちになる。

私がアートに希望を抱くのは
人がこの感覚を捉えて、表に現そうとする、
自由な魂の営みだと感じるからなんだ。

武器を持たないその手で何かを表現しようとする者にとって
『いのり』は
少なくともゆるぎない感覚と
生きる力を与えてくれるのではないかと
私は思っている。

そしてそれは当たり前のように 自然に
日々の 暮らしの中にあっていいんじゃないかと思う。

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写真は、のぶちゃん がつくったTLUD
まさに 山の祈りのStove って感じ。

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