Masahisa koike
Art Works
小池雅久展 2022
Masahisa Koike Solo Exhibition 2022
「Muddy River 泥の河」
2022年10月10日~11月9日
FlatFileSlash Warehouse Gallery
国家とそこに君臨する権力者たちの様々な思惑によって世界全体が不安によって覆われてしまっているように思えてなりません。
社会を覆う不安や不穏な気配は、私たちの心の何処かにある悲しみや苦しさを増大させ、やがてそうした心理は怒りや憎しみといった感情を呼び起こすと同時に、分断や排除さえも厭わないといった心理と共に、その解決を国家権力に委ねるといった行動を加速させ、行き着く先は国家権力の暴走、そして戦争があるのだと思います。
もちろん、国家が常に戦争を望んでいるということではありませんが、でも私たちが国家という権力が暴走し戦争という選択をさせないためには、「自分のことは自分で決める」その意識の育み、その大切さを忘れないことこが何よりもいま大切だと自分は強く思います。
Art、とりわけContemporary artとの出会いは、自分のこの人生にとって極めて重要な出会いであったことは間違いない。
ただ、Contemporary artとの出会いによって、Artは≒美術であって、けっして=ではないと思うようになると同時に、この土地に生まれ育ち、この言語で思考する自分にとって、「美術」という言葉が何を意味するのかに深い関心を抱くようになった。
そして何より、少なくとも「美」無くして美術は存在たり得ないことは確かだとして、美術とArtの狭間にこそ自分の求める何か があるような気がしている。
つくり、考え、話す といった機会は、自分がこの世を生きる上でことさら重要だと思ってはいるのだけれど、およそ一か月間という展覧会としては標準的な会期の中で、世間から隔絶されたような、白い壁に覆われた倉庫の中に。たった一か月間。人間の一生からすればほんの短かな時の間だけ出現する時空だからこそ、「生」と「美」の関係に触れることができるのではないか…。
これ以上の長い時間は必要ない…というか、この世を生きている間はこのくらいが丁度良いのかもしれない。
そう思うと、自分の行為(作品)は、ここに存在する時間と一緒に消え去ってしまうのが当然ではないかと思う。
昨日。この作品の最終段階となる泥を塗る前に、何となく、何かが足りない…と感じて、つくりはじめてはみたものの、どうにも納得のできる状態には至らなかった…。



















































昨年に続いて開催した、およそ一か月間の作品制作は、自分の思考に深く潜る…というか、意識の有る無しに関わらず、積み重なった思考の積層を眺める、感じるための日々だった。
それは、厚く強固に積み重なってはいることは確かなものの厚みはない。
平面的な重なりというよりは、泥団子を作るように何層にも塗り重ねられた球体に近いのかもしれない…。
経験に伴う思考は白に近い赤から黒に近い赤。
想像に伴う思考は白に違い青から黒に近い青。
その表層は泥の斑に覆われている。
泥の中に潜るには若干の度胸が必要で、潜る前の緊張というか、期待というか。
泥の中にそっと手を入れた瞬間の、手から体全体が泥の中に沈んでゆくような、泥の奥へと引きずり込まれるような。
水とは明らかに異なる泥の抵抗と、いつか何処かで嗅いだことのある匂い
畦道
キリギリス。
心地よさにも似た、それでいてそれとは少し違う。それが痛みではなかったのか。
作品を解体し、昨日まで作品だったそれが土と木材へと戻ると共に、自分の青かった思考の積層が赤へと変化する。
それが白に近いか黒に近いかは、いまはまだわからない。
かつて、偶然観ることになったスクリーンに映る泥の河は、自分にはモノクロの白にしか映らなかった。
それから10年以上経過した異国のスラムで、ぬかるんだ道の端を歩く人の姿を見た瞬間に、自分の意識の表層にあの泥の河が立ち現れると同時に、あの白は黒に近かったのだと思う自分があった。
と同時に、圧倒的な違和感と共感できるものが見あたらないという不安感に覆われていた…。
美術が美に関する何らかの術であろうということについて異論はないものの、美そのものが何であるのかという難問についてを、社会は気付きながらも、いまもなお、おざなりにしている。
美が綺麗なものであるという捉え方が間違っているとは言えないものの、そうした認識がこの社会において様々な差別を助長しているのではないか。
というよりもむしろ、この社会は美は綺麗なものという認識に封じ込めることによって、社会にとっての矛盾を蔑ろにしてきているのではないのか。
かつて、この国が経験した「敗戦」という痛みが社会の根底にあったからこその戦後復興。
敗戦という痛みの感覚が人々に、社会の根底にあったからこそ、貧乏であれ、豊かであれ、そこには生命としての共通性があったのではないか。
戦争を肯定する気などさらさらないけれど、、違和感や共感性の欠如や希薄さは、社会のいまにとって極めて大きなシグナルではないか。
違和感や共感性の欠如を感じるが故に、自分との違いを社会にとっての「痛み」として認識できるのであって、人はこの痛みを、自らの痛みと重ね合わせることをつうじて、社会とは何たるかを知ることが出来るのと同時に、美の本質を感じるのではないか。
社会が抱える痛みが人々にとっての共通性として認識されていた時代が終わってから数十年。
いま、痛みは個人が抱えるものとしてのみ存在し、社会そのものは痛みを感じることの出来ない固い表層に覆われてしまっている。























ナガノオルタナティブ-レジリエンス
小池雅久展 2021
Masahisa Koike Solo Exhibition
「人は何故、山に登るのか」
Why do people climb mountains?

途切れの無い時間と空間の中に生きている。
縄文と呼ばれる時代は遥か昔ではなく、私が感じているこの時間と空間の中にある。
川原に出かけ、私が腰を降ろしたその石に、彼らの誰かもまた同じように腰を降ろし、そこから山々を眺め、鳥の声を聞き、風を感じ、拾い上げた小石を川面に向かって投げ入れたかもしれない。
そこから見える風景を見ながら彼について想う時。
彼もまた私のことを想っているような気がする。
意識によって時間と空間を把握すること。
そこに科学的根拠は何も無くとも、私が思う という意識とは既に、この世に生れ出たという点からすれば、紛れもないこの世の現実。
この世に生まれでたばかりの意識はまだ弱く小さい。
時間と空間は絶えず広がり続けていて、現代に生きる私たちはそれについてを科学によって解明し、拡大し続ける時間と空間を把握しようと試みてはいるものの、広がり続ける時間と空間は未だ混沌としていて繋がりは弱く、人の意識を広がり続けるその外側へと向ければ向けるほどに疲弊する。
私たちが生きるこの地球は、球場の層が幾重にも積み重なった構造になっていて、外殻と呼ばれる地殻、その下にはアセノスフェアとマントル、さらに下にはマントルより粘性が低い液体の外殻、そして中心部は内核(コア)と呼ばれる個体であると考えられている。
私たちが見ること、触ることが出来るのは、地球の表面にあるほんの僅かでしかなく、この世を形づくるものすべては地球のその内側から生み出されてくる。意識もまた同じように。
目には見えない力、そしてこの世の全体を感じることによって把握しようとする意識は非科学的であるものの、この非科学的な意識のみが、こちら側であるこの世と向こう側であるあの世を繋ぐ唯一の手立てであり、広がり続ける混沌とした時間と空間を生きる私たちがけっして無くしてはならないこの世を生きる大きな力の源だと思っている。
2021年7月1日 美術家 小池雅久
















